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Posted by ミリタリーブログ at

2013年04月09日

ベルトの手入れの仕方


 諸事情により、久しぶりの更新となってしまいました。
残念ながら今回は写真はないのですが、40年版のライベルトより兵用ベルトの手入れの仕方について触れていこうと思います。

 実物のベルトを見ると、黒い部分(付ける際は表側で、革は裏革が用いられている)が、まるで革の表側のようにツルツルになるまで使い込まれているのですが(自分の所有しているものの例なので、個体差があると思われますが)、
実際にイベントなどでこれらの実物を使うのは少々怖いかと思われます。汗や水分をすってしまうと、ブチッって切れてしまう危険性もありますから。

 では、レプリカのベルトを使いましょう!というように考えても、市販のもので良いと思われるものであっても、黒い部分は裏革特有のケバ立ちのようなものがあって、そのままでは非常に使いにくいかと思います。
そこで実際のところ、当時の兵隊たちはどのように手入れをしていたのか、ということをライベルトの内容を元に説明していきます。


 まず、革の手入れということで最初に出てくるのがミンクオイルかと思います。
ベルトに塗りこむことで、革がなめらかになるのではないかと。
しかしながら、ケバ立ちそのものまでは無くすことは出来ません。できたとしても、ものすごく長いあいだ、手入れと使用を繰り返すことになるでしょう。

 そこで、必要になってくるのがワインの栓などに用いられるコルクです。
以下はライベルトからの抜粋です。

「革製装備の良い手入れは、革のケバ立ちをコルクで滑らかにし、布でミンクオイルを表面に塗り込み、ウールの布で乾拭きすることである。」1940年版ライベルト p.77 参照

 まず、コルクで革をなめらかにする際は、上下左右に直線的にコルクを動かします。ベルトを横に置いた状態で、ベルトと垂直・並行にと言えばわかり易いでしょうか。

 次に、ミンクオイルを塗り込む際は、ベルトの上に円を描くように塗りこみます。アルファベットの筆記体のLをずっとベルトの上に書き続けるような感じです。

 そして最後に、ウールの布で乾拭きというように書かれているのですが、これは余分な油分を拭き取るためだと思われますので、ウールの布で無ければならないということはないかと思います。現に、ライベルトには、上記2者は小さくイラストが載せられているのですが、この3番目の工程は載せられていませんので。

 以上、読みにくいものになってしまいましたが、実物装備の保存と皆様がお持ちのレプリカベルトの品質向上に繋がれば幸いです。

 ※ちなみに、国内で売られているレプリカベルトで、最初から革の黒い部分がツルツルのものがありますが、それに関してはどういうものなのか自分としては分かりかねますので、そちらの手入れについては省略させて頂きます。


bis bald, Kameraden !

  

Posted by ハルトマン at 19:43Comments(0)装備品

2013年01月01日

Ein glückliches neues Jahr !

新年、明けましておめでとうございます。

昨年も色々とイベントに参加できて、皆様とも、語弊がありますが、楽しく過ごさせていただいて
非常に充実したものでした。




 今年は、友人にお借りしたライベルトの翻訳をやると
半ばその場の勢いで宣言してしまったので、私生活の傍ら、時間を見つけては
コツコツと翻訳していくことになるかと思います。

 今年は2月9・10日にHGGがさっそくあるそうなので、非常に楽しみです。
楽しみというのは、また去年の冬のHGGのように、極寒のなかで色々できるのではないか、
という意味ですけど(友人によく、最早ビョーキだと言われますw)

 今年はそれに加えて、米軍をやってらっしゃる方々のように、
ちょっとした野営みたいなものが出来ればとも考えていますので、
リュックか背嚢と、毛布、その他の備品も揃えていければと思います。

 ブログを見てらっしゃる方、

 これらのイベントは、装備に関するレギュレーションや行動規則など、
色々と、これも語弊があるかもしれませんが、制限があるものが多いですが、
一度この手の趣味にハマってしまうと病みつきになる、非常に楽しいものです。
 もし、興味がおありで、でもどういうものを揃えれば良いか分からない、不安だ
という考えをお持ちでしたら、お気軽にここに書き込むなり、イベントに問い合わせるなりしてみてください。
きっと、新しい、そしてもしかしたら、一生モノの趣味を見出せるかもしれません(^-^)

 それでは、
Bis bald, Kameraden !

  

Posted by ハルトマン at 05:40Comments(1)日記

2012年12月18日

Der Erste Zug 翻訳しばらく休止のお知らせ

 Servus, meine Damen(?) und Herrn.


 12月16日のビクトリーショーにて、友人に1940年版ドイツ軍の陸軍勤務操典(仮訳)、通称ライベルトをお借りして、現在こちらの翻訳に専念していますので、しばらくDer Erste Zugからの記事翻訳・掲載は誠に勝手ながら休止させて頂きます。



 おそらく、再開は早ければ来年の夏、もしかしたら再来年くらいになってしまうかもしれません。なにせページ数が膨大(およそ350ページ)なもので、さらに専門用語も交えているものですから、なかなか手ごわいです。

 ちなみに、今回お借りしているのは再販版なので、著作権の問題などからここへの掲載は今のところ叶いそうもありません。
 もしかしたら、どこかの出版社に完訳版を持って行って、海外の出版社との話が付けば(もちろん、著作権云々の問題があまり無ければの話ですが;)、国内での出版をお願いしちゃおうかな~などと絵にかいた餅、捕らぬ狸の皮算用のような妄想にふけっております(いや、やりませんし、出来ませんけどw)

 イベントで知り合った知人・友人の方々には、可能ならば完訳版のコピーをお譲りしようかと思います。

 こんなことを書くと、さらに自分を追い詰めることとなるのでしょうけど、こうでもしないと動かない性分なので(´・ω・`)


では、短い近況報告のようなものになってしまいましたが

bis bald, Kameraden !

  

Posted by ハルトマン at 14:43Comments(0)日記

2012年11月30日

ウィンターフロント2012 お疲れ様でした!




 
 参加された皆様、ウィンターフロントお疲れ様でした。

 今回も、例のごとくグローバー小隊の一員として参加させて頂きました。
おととしぶりに弾薬手をやったのですが、前日の夜から朝方までにかけての寒さのせいで体調不良で、
あまり弾薬手らしい動きができませんでした(´・ω・`)

 今回は仲間と一緒に4枚組のツェルトを張って夜を過ごそうかと思ったのですが、寒さでつま先や耳が痛くて寝れずに、ほぼ不眠の状態で戦闘に参加しましたw
なにせ、薪ストーブで沸かしたコーヒーが数時間でシャーベットになったり、パンが凍ったりする寒さでしたから、お腹が弱い自分はもう大変で大変で・・・
 状況中に一度、スコップと同じ分隊員のベルクさんに頂いたちり紙を持って、トイレ(という名の野糞ですがw)に行ったのですが、この時にやることを済ませて、いざパンツとズボンをあげようとしたときに、米軍の方が数名来てしまいまして、
おそらく半ケツを見られたかと思います(´・ω・`)

 穴を埋めたあとに「ゆっくりクソもさせてくれないのか!」などとうっかり口走ったものですから、
その場で銃殺されてしまいました・・・なんという戦争の悲劇(苦笑)

 幸い、肉体的には致命傷では無かったので、分隊に戻ると、
フェルトシャイセ(直訳で野糞 本当はもっと別の単語なのですが、調べる気にもなりませんw)という有難いあだ名を拝命してしまいました。




状況終了後に撮っていただいた一枚。

 もう少し側面の髪を短く出来ればそれらしく見えるのですが、白黒にするとカラーのものよりはまだ見てくれがいいです・・・多分。
 状況中にPervitinというヒロポン的なお薬(あ、この時の中身はただのラムネ菓子ですよ;)を頂いたので、まだ少しアヘ顔っぽいですw

 今回の良かった点はやっぱり、3列縦隊(Marschkolone)で行進出来た点ですね。
装備の統制もそれなりに進んでましたので、どなたか写真か動画を挙げてくれないかとワクワクしてます。

 何を書くのか忘れてしまったので、今回はこのあたりで。



Bis bald, Kameraden !

  

Posted by ハルトマン at 00:01Comments(6)イベント

2012年10月30日

観閲の手順

 今回のコンバット(10月27-28日)で、部隊編成完結式のために観閲式を行ったのですが、自分の方でも手順や号令が分からなくなってしまったので、今回このようにまとめさせて頂くことにしました。

 例のごとく、参考にしたのはDer Erste Zugです。

 簡略化のために番号を付けて箇条書きにして説明します。

1.下士官・兵は人数にも依るが、横隊で整列する。小銃はGewehr abの状態。

2.Richt euchの号令で列を正す。基準は右端の人。

3.Augen gerade - ausの号令で正面を向く。それまでは右側を見続けること。

4.Das Gewehr - überの号令で、担え銃の状態になる。担え銃のポイントは以下のとおり。
 4.1.Gewehr abの右手の位置からそのまま銃を体の正面、野戦服のボタンのラインへ持ち上げて、左手は右手のすぐ下の部分を握る。右手はアゴの下あたりの位置。
 4.2.右手を動かし、機関部上部を握る。
 4.3.右手で左肩に銃を乗せると同時に左手をバットプレートへ移す。
 4.4.右手を気をつけの姿勢に戻す。銃のトリガーガードは脇の下のあたり、銃はなるべく垂直になるようにする。

5.Achtung! Präsentiert - das --- Gewehrの号令で捧げ銃の状態になる。捧げ銃のポイントは以下のとおり。
 5.1.左手で銃を右へ90°回しながらやや下げ、右手はグリップのところへ。
 5.2.右手でさらに90°回し、同時に左手はリアサイトの下部へ。
 5.3.右手の指を伸ばし、銃は垂直、体と並行に。左胸のボタンのラインに合わせ、フロントバンドは目の高さに。

6.Zur Meldung --- Augen - rechts の号令で、右端も含めて全員が右を向く。

7.指揮官が歩いて来たら、頭を動かして彼を目線で追う。

8.自分の目の前を通過し、更に彼が5歩歩いたら、目で追うのを止めて正面を向く。


 普段のCOMBATでは更に担え銃、立て銃をし、指揮官の訓示、指揮官の退場、解散まで行うのですが、このあとどうするのが正式なのかは不明なため、ここまでとしておきます。

 百聞は一見にしかずと言いますが、この文章だけでは分かりにくいので、今度イラストなどを交えて追記できればと思います。  

Posted by ハルトマン at 14:45Comments(0)ドイツ軍の号令 簡略版

2012年10月03日

ドイツ軍兵士の小銃の持ち方

 
 本文に入る前に、まずこの記事を翻訳したものとはいえ、転載することを快く許可してくれたアメリカのリエナクトグループであるDer Erste Zug http://www.dererstezug.com/index.htm の方々、そして原文を書くために努力した方々や、翻訳に当たって協力してくれた友人たちに心から感謝したいと思います。
 これらの協力がなければ、今私達がこの資料を共有することは出来なかったと思います。

 I would like to thank Der Erste Zug for permitting to quote this article.
Without their efforts and generosity, we would not have been able to share these valuable research.

 ドイツ軍兵士の小銃の持ち方

著者: Oberfeldwebel Heinrich Lützow、 編集: Unteroffizier Jan Sabol
________________________________________

 ドイツの小銃兵(Schütze シュッツェ)は他の小銃兵や機関銃手と共に分隊(8~15人)の最小の役割の1つである。小銃兵が彼の小銃と共に一人で行動するのは稀であり、戦局を変えることを期待されてはいなかった。彼は制圧射撃をすることは出来ない。ドイツの分隊のドクトリン(原則)は機関銃を配備し、従事することがまず第一であり、よって分隊長は常にそれに集中した。すなわち小銃兵の配置はその次であり、機関銃の補助だけを目的としていたのである。ドイツ軍はボルトアクションライフルを戦争末期になるまで置き換える努力をしなかった。というのも、MG34とMG42が非常に優秀であり、小単位での戦術において重要であったため、小銃はもっとも重要でないと考えられていたからである。戦争末期になってからようやく他の小銃が姿を現したが、それでもあなたは1945年でもMP44よりも多くのKar98kを見ることになるだろう[英語の原文では「MP44の20倍のKar98kを~」]。
 もしあなたが当時の場面を見たとき、あなたは小銃がほとんど常に右手だけで持たれていて、保持している腕が伸ばされている(Trail carryと、現代の狩猟において知られているもの)のに気が付くだろう。これは小銃兵を走るのを容易にさせ、左腕を振ることを可能にさせている。これは何時間もずっと小銃を持つ兵士にとっても、楽なのである(現代のライフルの上に持ち手(M16などのキャリングハンドル)を付け加えたのも、まさにこの理由によるものである)。



 1950年代まで、すべてのドイツ人は子供の時から右利きになるように教えられ(左利きは不自然に思われた)、実際にすべてのドイツの小銃や戦闘行動、パレードの訓練から戦闘動作まで、ドイツ軍の兵士は右手(利き手)で小銃を持っていることを忘れないでほしい。



 あなたは、たとえ銃撃の中でも右手に小銃を持ち、腕を伸ばして銃の支点を保持するドイツ兵を見ることになるだろう(上の画像を参照のこと)。これによって自由な動きと素早さを得ることができる。先に述べたHinlegenの、右手を自由にするために左手に持ち代えた後の絵で誤解をしないでほしい。多くの人がその絵を見て、小銃を左手に持つものだと勘違いをするが、そうではない(それは未熟なために銃を胴の周りで振るからであり、意味をなさない)。では、基礎訓練のドイツ兵の写真を見て勉強し、若者たち(今まで火器を持ったことのない農家の者や街の男の子)が正に何を教えられたか、そして教科書のすべての記述に小銃をどのように保持するかを見ることになるだろう、すなわち右手に保持するということを!

 銃火にさらされた分隊がまず第一に取る反応は、伏せることである。これは、まず当たる見込みのない目標に向けて小銃兵に狂気じみた射撃をさせるためではない。この時、分隊の全員は分隊長が機関銃(彼はその近くにいる)に従事するまで待機する。もし、差し迫った脅威がある場合、分隊は遠慮なく射撃を始めるのだが、分隊における訓練では交戦状態になる前にFeuer Frei(フォイアー フライ:自由に撃て)の命令を待つ。
 ドイツ人はこれに厳格で、彼らは個々の小銃兵が命令なく交戦しようとはしなかった。ドイツ人は射撃開始のことをFeuereröffnung(フォイアー・エァ・エフヌング)と呼び、彼らはそれがいつ起きるのかにとても熱心だった。これについて書かれている多くのドイツの教範がある。彼らは臆病な若い兵士に射撃の最中に配置を離れてほしくなかった。行動が始まると、Feuer Freiの命令がすぐさま下されたが、一般的に彼らは命令あるまで射撃を控えるように教えられた。

 余談だが、あなたは機関銃をスリングと共に前を向けて立ったまま銃弾をばらまく準備の出来た持ち方があることに気が付くだろう。これは、前にも言ったが、機関銃の高い連射速度こそ、ドイツ人のねらっていることだからである。これは使える武器であって、小銃とは違う。同じことが前を向けてあるMP40にも言える。こう言うのは残念だが、貧弱なKar98kは遭遇戦の場合、劣った立場になるのである。

 ボルトアクションライフルは狙いを付けない射撃の為には設計されていない。ドイツ人はそれを伏せた状態からの良い狙いで撃つことを望んだ。彼らはマークスマンシップ(射手としての能力、技能)に大きな強調とプライドを置いた。そしてこれは彼らの歴史的なスポーツである狩猟[本文ではJägerとなっているが、狩猟はドイツ語ではJagdである]でも明らかである。ドイツ人は接近戦において、Hüftschussと呼ばれるスナップショットをした。これは腰から離して、銃剣を突き刺すようにして小銃を発砲することを意味している(ドイツの小銃の位置は、かつてのマスケット銃の、銃剣での殺傷が主であった時代を依然としてほのめかしている)。前進するための適切な小銃の位置を映画「スターリングラード(93年のドイツのもの)」の脱走したドイツ兵が谷間で凍りかけの難民に遭遇したシーンで完璧に見ることができる。ドイツ兵は神経質になり、本能的に彼らの小銃を銃剣を前にして腰に構えている。どのような場合でも、この態勢は開けた野原の為ではなく、ほんの一瞬で敵と遭遇する接近戦の為である。

 小銃の標準的な持ち方は、立っている場合では現代のSide CarryかElbow Carryに似ていて、小銃が右ひじと体の間、わきの下に隠れていて、左手は銃床の前の方にあり、銃は前を向いている(下の画像1を参照)。これによって素早くHüftschuss(スナップショット)に移行するか、銃剣を突き出すことができる。そして、右手が自由になり、Hinlegenになることができる。また、ドイツ人がパレードの訓練の時のように小銃を彼らの右足に並んで立てるのも見るかもしれない。また、よく見ると戦闘の合間にほこりっぽい平野に立っている間でさえ、多くの兵士が本能的に銃床の前のあたりを指をまっすぐにし、まるでパレードの時のように右手で握っている。これは彼らが訓練で叩き込まれ、無意識にしているからである(画像2を参照)。



 さてここで、私はよくリエナクター達が、戦争後期では訓練が短縮され、兵士たちが教本のように行動しないことを嘆いている、という事をたびたび耳にする。これは事実ではない。たとえ最も短縮された後期の訓練でも、5年前(1940年)と同じ教官か、彼らに教えられた者たちによって実施された。ドイツ軍は時間が無かったために突然、訓練を変えたわけではない。単に不必要なものである、教練の行進(Exerziermarsch)や行進の時のLinks umなどを除外し、訓練時間の不足のためにより簡単な訓練をしたのである。 私は戦争後期の兵卒が教本のやり方をしている写真を数多く見たことがある。既存の方法に従うというドイツの要求を過小評価してはならない。ドイツ人が戦争の終わりまでにどれくらい訓練を緩くしたかに現代の振る舞いを用いらないこと。私は、しばしば厳密な教練と詳細な戦術は戦争後期のリエナクトに必要でないと主張するリエナクター達のことはただ怠惰であると考え、わざわざ詳細に注意を向けさせることはできない。 あなたが長い間この趣味をするのなら、これらの詳細はあなたにとって重要であり、あなたは、それらを知って、練習するべきである。

 同様に、ベテランの方々の動作の詳細に注意してください、特に教練について。以下の有名な方たちは基礎訓練を受けてから長い年月が経ち、年々それはおぼろげなものになっています。私は、捧げ銃の時は小銃を鼻の正面に持ってくると主張するドイツのベテランを知っています。しかし、彼は捧げ銃の時の"Das Gewehr — über!„の命令の最初のテンポの時にミスを犯していますが、60年経った今、誰が彼を責められるでしょうか?彼は1944年に(そう、戦争末期に)担え銃の3テンポを繰り返し訓練を受け、その訓練の一部を思い出したのだ。彼は最初のテンポで小銃を彼の鼻先の中央に保持するようにと、何百回もFeldwebelの怒鳴り声とともにやり、それが彼の記憶の1つにあるのだろう。私はカナダの執銃法を20年前に習ったが、それ以来やらず、20年経ってもうその多くの詳細を忘れてしまっている。だから、ベテランの方々も同様に時間という霧に覆われているに違いないということを覚えておいてほしい。ベテランの方々は素晴らしい、魅力的な情報源であるが、私たちはドイツで1940年代にドイツ軍によって書かれた当時のマニュアルを私たちが演じようとしている本当の兵士のために持っている。私たちはこのほとんど手の付けられてない知識の宝庫を無視してはならない!当然の尊敬とともに、私は1945年の13歳のときに6週間、対空砲に配置されていたヒトラー・ユーゲントよりは、1942年にドイツ陸軍の士官とHeinz Decklerによって書かれたマニュアルを頼りたいと思う。もしあなたが1945年の戦いのリエナクトを考えているのなら、これらの詳細な知識は求められない、そこで、この趣味であなたの関与は良くても何気ないものになるであろう。これはかまわないが、あなたはおそらく国民突撃隊のリエナクトをするのが関の山となるでしょう。

原文:米国Webサイト der Erste Zugより
http://www.dererstezug.com/HandletheRifle.htm

  

Posted by ハルトマン at 02:15Comments(0)翻訳文ー命令・戦術などー

2012年08月21日

Drei Lilien ~三輪の百合~

 今回は、イベントで歌えるような覚えやすい歌詞の歌を一曲紹介しようかと思います。

 ドイツ軍で隊列を組んで行進するにあたって、歩調を合わせて歩くために、
Winterfrontやその他のイベントなどでも歌を歌いながら行進するというのがあります。

 ただ、当時歌われていたであろうドイツ語の歌を歌うわけなので、
日本人には正直言って厳しいものがあります。
よって、今回はドイツ語の原文の歌詞の下に、カタカナでの発音をふって、
ある程度覚えやすい、読めるものにしていこうと思います。
構造としては以下のようになります

・ドイツ語原文
・(フリガナ)
・歌詞の日本語訳

 ただ、あくまでもこのフリガナは自転車で言うところの補助輪のような役目を目的としているので、
可能ならば行進するときにドイツ語っぽく歌えるようにというのが、最終的な目標です。
 
 また、今回のフリガナは現代のドイツ共通語(Neuhochdeutsch)の辞書発音を元にしているものです。
歌う場合は、必要ならば発音をちょっと変えて、歌いやすいように語尾などを省略するなど、
各自で試行錯誤して頂ければ幸いです。

 前置きが長くなりましたが、今回紹介するのはタイトルのとおり、Drei Lilienという歌です。
93年のドイツ版スターリングラードの後半で、アコーディオンで歌なしで演奏されていたりします。

 
 Drei Lilien, drei Lilien,
 (ドライ リーリエン, ドライ リーリエン,)
 三輪の百合、三輪の百合を

 Die pflanzt' ich auf mein Grab,
 (ディー プフランツト イッヒ アオフ マイン グラープ)
 私は自らの墓に植えた。
 
 Da kam ein stolzer Reiter
 (ダー カーム アイン シュトルツァー ライター)
 そこに一人の立派な騎兵が来て

 Und brach sie ab.
 (ウント ブラッハ ズィー アプ)
 それを持っていってしまった。

 Juvi valle ralle ralle ralle ra
 (ユヴィ ファレ ラレ  ラレ  ラレ  ラー)
 ララ ララララ ララララ ラ

 Juvi valle ralle ralle ralle ra
 (ユヴィ ファレ ラレ  ラレ  ラレ  ラー)
 ララ ララララ ララララ ラ

 Da kam ein stolzer Reiter
 (ダー カーム アイン シュトルツァー ライター)
 そこに一人の立派な騎兵が来て

 Und brach sie ab.
 (ウント ブラッハ ズィー アプ)
 それを持っていってしまった。


 本来ならば、2番も勿論あるのですが、音源によって歌詞がマチマチなので、今回は1番のみにさせて頂きます。
 
 実質、4行を覚えればいいので、ErikaやWesterwaldliedなどのお馴染みの曲に比べれば
比較的覚えやすいかと思います。

 歌詞、日本語訳については以下の方から引用・改訂させて頂きました、この場を借りて感謝いたします。
 西洋軍歌蒐集館
 http://gunka.sakura.ne.jp/index.html
 
 音源はYoutubeなどに散乱していますが、聞き取りやすいと自分が思うのは以下のものです。
参考までにお聞きくだされば幸いです。
http://www.youtube.com/watch?v=x8q-UFDBl9k

 後半にZehntausend Mannという別の歌がメドレー形式で入っていますが、こちらも短い歌なので
今後、紹介できればと思っています。

では、
Bis bald, Kameraden !  

Posted by ハルトマン at 12:12Comments(0)

2012年08月06日

個人・部隊による敬礼

 本文に入る前に、まずこの記事を翻訳したものとはいえ、転載することを快く許可してくれたアメリカのリエナクトグループであるDer Erste Zug http://www.dererstezug.com/index.htm の方々、そして原文を書くために努力した方々や、翻訳に当たって協力してくれた友人たちに心から感謝したいと思います。
 これらの協力がなければ、今私達がこの資料を共有することは出来なかったと思います。

 I would like to thank Der Erste Zug for permitting to quote this article.
Without their efforts and generosity, we would not have been able to share these valuable research.

 今回のものは、筆者が、わかりにくい点には例などを付け加えていますが、
英語で書かれている号令をドイツ語のものにするなど以外は、原作者の意を組んでそのままにしてあります。
しかしながら、ドイツ語から英語、日本語と2回も違う言語へ翻訳されると、その意味も違ってくる場合がありますので、
以下の事柄に興味のある方は、あわせて当時の映像資料(Die deutsche Wochenschauなど)なども参照されることを強くお勧めします。
 また、最後の挨拶に関しては、音声資料の不足等から、筆者自身は違和感を覚えましたが、それを否定する材料を持ち合わせていませんでしたので、そのまま掲載させていただきます。 今後の調査で、その内容を変更させていただく場合がありますので、ご了承ください。
 少なくとも、現代においては”Heil”などと挨拶は行いません。


個人・部隊による敬礼
敬礼の義務
Der Rekrutからの引用
________________________________________

 以下の、下士官兵にも適用可能であろうものは『駐屯地任務のための規則[原題:Regulations for Garrison Duty]』からの抜粋である。これは、英語に翻訳された1935年のドイツ軍の教本から引用されたものである。Der Rekrutの抜粋をこのサイトで使うことを許可して下さったMichael Bollow氏に感謝します。もし、この教本を購入したい場合は、彼のウェブサイトであるhttp://members.aol.com/soldaten/rekrut.htmへどうぞ。
 このサイトに付け加えてあるドイツ軍の敬礼の画像の例はRay, Josephine Cowdery(名前からして著者とその奥様でしょうか?)のPapers Please![直訳した邦題:許可証をお願いします!]から引用されています。この本は、第二次大戦中のドイツの事務職[書類を扱う職業のことを指す?]についてより多くを学ぶ為に素晴らしいソースです。


個人での敬礼
________________________________________

制服を着た個人が以下の場合において敬礼する場合:
・総統・首相[原文では-of the Reichとありますが、ドイツの事だと分かるかと思うので省略させて頂きました。]および国防軍最高司令官
•戦争省大臣[聞き慣れない省ですが、かつては存在したそうです。]、国防軍総司令官、地方警察で同等の階級を含む、制服を着たすべての上位階級の者、また同様に制服を着た旧陸軍、旧海軍、かつての国防軍の者。
•旧陸軍およびかつてのseagoing battalionの旗・軍旗[原文で言うところの旗(banner)と軍旗(standard)の違い・訳し方、seagoing battalionが何を意味するかの2点については自分も難解な為分かりかねます。どなたかご存知の方がいましたら、コメント頂けると嬉しいです。]
•海軍の総司令官により決定された旧海軍の軍旗、地方警察の旗

 姿勢を正して着帽しており、 通りすがりか、上位階級の者に向かって立っている(もしくは座っている)場合:右手を帽子またはヘルメットへ添える[要はよく見るタイプの敬礼※1] 無帽の場合:Deutscher Gruß※2[日本語で言うところのナチ式敬礼だとか呼ばれるもの]をする。




 もし、その兵士が何か物を持っているなどの理由で敬礼ができない場合、敬礼の代わりに姿勢を正して歩いたり、座っていたり、気を付けの姿勢で立つ。座った状態での敬礼が容認されるのは、それが必要とされる状況であるか、または狭い車両の中や走行中の車両の中などのように立って敬礼が出来ない場合のみである。その他すべての場合、下位階級の者は敬礼するときに立つ必要がある。
 下士官兵はまた、かつての国防軍の一員や、旧陸軍・海軍の者を含む、礼服姿の従軍牧師のような、制服を着た国防軍の文官にも敬礼しなければならない。
敬礼は素早く、きびきびとしなければならない。敬礼は、上位階級の者の5歩前から始め、通り過ぎて2歩経ってから終える、もしくは部屋に入る時、出る時に行われる。
 酒保を含む兵舎の室内や役所、他の宿泊施設、「注目!(または、気を付け。原文のAttentionからは正確な意味が読み取れないため)」の号令を当直将校が発した場合や、将校や小隊付き(中隊付き)の軍曹が彼らの場所に来た時などに、全員が起立して「休め」の号令を言われるか、部屋を出ていくまで上位階級の者に向かい姿勢を正す。最も古参の階級の者が上位階級の者が来たことを知らせる。事務室などでは「注目」の号令はされず、また上位階級者が来たことも知らせられない。敬礼は座った状態で、上位階級者が部下に話しかけるまで行われる。
公共の交通手段や待合室、寄宿舎、ガーデンカフェ、劇場、コンサートホール、講演室(レクチャールーム)のような兵舎以外の狭い場所では、上官・部下が互いに挨拶する距離まで近づいた場合に敬礼をする。敬礼はその状況に応じて行われる。

 最初に上位階級者に気がついたものが、彼の仲間に適宜、礼儀として敬礼するように知らせる。
敬礼する前に、タバコを銜えるのをやめ、手をポケットから出すなどをする。おしゃべりをしながらや、上記のような物を手に持ちながらの敬礼は許可されていない。
 馬に乗っている時、もし任務に関する物事が妨げられないのならば、歩きながら敬礼をする。馬に乗っている上位階級者を下位階級者が追い越して行きたい場合、そうして良いかどうかを訪ねなければならない。(野戦訓練中や作戦行動中を除く)自転車を運転する人、運転手、騎手は座った状態で姿勢を正す。


個人で行われるべきではない敬礼:
a.車両が動いている状態で、自動車の運転手、または教習生に同乗している軍の運転教官による場合
b.もし交通や自身の安全を危険に晒す可能性のある場合における、自転車、自動車の運転手、騎手や自動車の乗員による場合
c.任務にあたっている部隊の兵士による場合、もしこれらの兵士が上位階級者に話しかけられた場合、彼は起立もしくは座った状態で姿勢を正す:射撃訓練、もしくは戦闘の最中、装備品を身に付けての訓練の最中など
d.駐屯地の指揮官または部隊指揮官の特定の命令の下で、乗馬用逍遙道や乗馬場にいる場合
e.乗り物に乗った伝令による場合


隊列を整えた部隊による敬礼
________________________________________

隊形の部隊による敬礼は、駐屯地内または兵用宿舎内でのみ行われ、大隊の、敬礼をする(下士官と)兵の指揮の下で行われる:
•総統および首相
•戦争省大臣
•地方警察で同等の階級を含む、制服を着たすべての将校
•旧陸軍およびかつてのseagoing battalionの旗・軍旗[原文で言うところの旗(banner)と軍旗(standard)の違い・訳し方、seagoing battalionが何を意味するかの2点については自分も難解な為分かりかねます。どなたかご存知の方がいましたら、コメント頂けると嬉しいです。]
•海軍の総司令官により決定された旧海軍の軍旗、地方警察の旗

着帽した状態の隊形の部隊
 徒歩で行進中の部隊の場合、敬礼はparade-stepping※3(グースステップ)により行う。(途足[みちあし:隊形は崩さないが、歩調を合わせないこと]で行進していた場合)Im Gleichschritt, marsch![原文ではQuick step, march!:英語に訳す際に齟齬が生じたのか?]、Achtung, Augen rechts(links)![号令については別記事を参照]の号令が出され、Achtungと聞こえたら、グースステップで歩き始める。敬礼の終わりには、 Augen geradeaus, marsch!またはOhne Tritt, marsch!の号令が途足で歩く場合に出される。
 馬または車両に乗って移動中の部隊の場合、敬礼のための号令はAchtung! Augen rechts(links)!であり、Achtungが聞こえたら、座ったまま姿勢を正し、命令の通りにする。Augen rechts(links)!の号令が出されたら、車両の後席の人員は顔の向きを変え、反対側4に目を向ける。敬礼の終わりには、Augen Geradeaus! の号令が出される。
車両で行進している部隊は指揮官の合図で敬礼し、それは車両の運転手を除く全ての随伴している人員によって繰り返されることになっている。
 徒歩で止まっている部隊の場合、指揮官はAchtung! Augen rechts(links)! と号令をかける。馬上もしくは車両に乗っている部隊で止まっている場合、号令は[同じように]Achtung! Augen rechts(links)!となり、階級の高い将校を注視する。もし彼が部隊に沿って歩いていたり馬に乗っていたりする場合は、全員が彼の方を向き(頭を向け)、彼が2歩通り過ぎるまで注視し、そのあと頭と視線を正面へ向ける。もし部隊が降車している場合、Achtung!の号令が出されたら、馬または車両に1歩寄る。指揮官は所定の位置へ行く。Rührt euchの号令が出たら、敬礼をやめる。

無帽状態で隊列を整えた部隊の場合
 無帽状態で隊列を整えた部隊は着帽状態と同じように敬礼をする。しかし、この場合、もし部隊指揮官も無帽状態ならばDeutscher Grußを行う(例を挙げるならば、スポーツ用の服装をしていた場合などである)

隊列を整えた部隊にとって、以下の場合は敬礼をするべきではない:
a.持ち場以外の場所または兵舎の外
b.行進の後、Rührt euch!の号令が出された場合、または止まっている場合。兵が行進中に指揮官とすれ違う場合、各々が彼を姿勢を正して見る。歩兵は号令で銃のスリングをピンと張る。
c.作業用具を用いて土木作業中の場合。指揮官のみが敬礼または挨拶をする。
d.路上警備の場合。警備の指揮官と部下は個々人で敬礼、または挨拶をする。

 隊列を整えた部隊に敬礼されないWehrmachtの人員は、単に指揮官によって敬礼されるか挨拶される。途足[みちあし]で行進している場合(もしくは休めの場合)、各々の兵士は好きなように市民に挨拶して良い。


敬礼する義務
________________________________________

以下の場合には互いに敬礼する相互義務がある:
a.Wehrmachtの人員同士の場合、規則に関わる敬礼で無い場合に限り、制服を着た地方警察やかつてのWehrmachtの者、旧陸軍、または旧海軍の者も含む。
b.Wehrmachtの人員。警官と局地的な警官(憲兵);公務中の森林管理職員と鉄道警察、DLV[Deutscher Luftsportverband:ドイツ航空協会]とRLB[Reichsluftschutzbund:国家防空連盟]、SAとその下部組織、SS、NSDFB[Nationalsozialistischer Deutscher Frontkämpferbund:鉄兜団(StahlhelmまたはBund der Frontsoldaten)の後身である国家社会主義ドイツ前線戦士連盟]、FAD[Freiwilliger Arbeitsdienst:RAD(国家労働奉仕団)の前身である団体]のメンバーおよびナチ党の政治的指導者たち

以下に対して個々人は更に敬礼する必要がある:
a.隊列を組んで行進中の警察、DLV、RLB、SAとその下部組織、SS、NSDFB、Reichstreubund、Kyffhaeuserbund退役軍人協会[この2つは詳細不明なため、情報募集中です]、FAD、ヒトラー・ユーゲント、その他の国家社会主義の政治組織の旗と旗手に対して。例外としては、SAとSSの指揮旗と、BDM(Bund Deutscher Mädel:ドイツ女子同盟)とJungvolk少年リーグの優勝旗である。
b.ドイツ国歌またはホルストヴェッセルの歌が演奏されている間。
c.記念碑に近づくか入るとき
d.葬式の時
e.上官が私服で、兵が彼[彼ら]を知っている場合


制服を着ていて、着帽した兵士の場合、普通の敬礼がかいつまんで言うと敬礼の規則である。
制服を着ていて、無帽または私服の場合、Deutscher Grußを用いる。

 階級の低い者、または新任の者が先に敬礼をする。仮に、Wehrmachtの者でない者に敬礼していても-兵士らしくキビキビと敬礼するのは、兵士たちの間での敬意の問題である。
既に論じられているが、一定の個人は敬礼の義務を免ぜられている。(例:車両の運転手、乗り物に乗っている伝令など)

自発的な敬礼
 外国の軍人が先に敬礼した場合、任意の敬礼が期待される。隊列を組んだ部隊は敬礼しない。もし敬礼が必要とされる場合は、部署の先任士官または艦の指揮官がそう命ずる。

答礼
 もし、上官が兵士の敬礼に対して”Heil”や”Guten Morgen”などと言った場合、同じ語句を用い、さらにHerr+上官の階級を付け加えて返事をする。
[例:ある少尉(Leutnant)が2等兵(Grenadier)に挨拶した場合]
Leutnant:Guten Morgen.
Grenadier:Guten Morgen, Herr Leutnant !

 上位階級の者が隊列を組んだ部隊に対して挨拶する場合、”Heil”にその部門または部隊の名前が加えられる。部隊側は”Heil”にHerr+上官の階級を添えて返事をする。戦争省大臣の場合は”Heil, Herr General !”、総統である帝国の首相の場合は”Heil, mein Führer”となる。
________________________________________
※1  44年7月20日に試みられたヒトラー暗殺以後、軍の敬礼は変えられた。伝統的な”軍の敬礼”である、手を帽子のつばまたはヘルメットの淵に当てるものは以後禁止された。 Deutscher Grußまたはナチ党式の敬礼をWehrmachtの公式な敬礼とするよう命令された。 多くの兵士がDeutscher Grußを馬鹿馬鹿しく、非現実的なものと考えた。ある退役軍人が言うには、この新しい命令の後、「飯盒を右手に持って、”党への忠誠”を示すのを強いられるのを妨害するという行為は、中隊の中でも珍しいものではなかった。」そうである。
※2 "Deutscher Gruß ”:ドイツ語でのナチ式敬礼のこと。たとえこれが公式な規則であったとしても、政治的な問題からリエナクターはこの敬礼をしないことをお勧めします。
※3 "Parade-stepping" (Exerziermarsch) : ドイツ語でグースステップのこと。
※4 反対側: 外見上、車両の後部座席に座っている者は逆の方向を向いているということ。


原文:米国のWebサイト Der Erste Zug
http://www.dererstezug.com/salutes.htm

  

Posted by ハルトマン at 19:48Comments(1)翻訳文ー命令・戦術などー

2012年08月02日

Alfred Becker氏へのインタビュー

 
 本文に入る前に、まずこの記事を翻訳したものとはいえ、転載することを快く許可してくれたアメリカのリエナクトグループであるDer Erste Zug http://www.dererstezug.com/index.htm の方々、そして原文を書くために努力した方々や、翻訳に当たって協力してくれた友人たちに心から感謝したいと思います。
 これらの協力がなければ、今私達がこの資料を共有することは出来なかったと思います。

 I would like to thank Der Erste Zug for permitting to quote this article.
Without their efforts and generosity, we would not have been able to share these valuable research.




Alfred Becker
________________________________________
Eric Tobeyによるインタビュー

 このインタビューはDie Neue Feldpostから引用されたもので、出版者の許可を得ています。私たちは出版者の寛大さに感謝するとともに、この記事に貢献した全ての人にも感謝したいと思います。彼らの努力によって、私たちはこの貴重な研究をあなた方と共有することが出来るのです。
この記事の大半は以前、1989年の秋にDer Meldewegと呼ばれる公報に掲載された。これは、おそらく6回のBecker氏との会話と、私たちの「ドイツのベテランへの101の質問」の発展の産物であるものなどを代表とする質問の結果である。私たちは容量の問題からいくつかの質問を省略する必要があった、おそらく私たちは、それらを以下の質問の中で述べることになるであろう。Becker氏は多くの詳細な事柄までは完全に思い出せなかったが、彼は他の誰よりも、私たちの研究の努力が実際にあるということを信頼している。彼がもっともよく使った言い回しは「あなた方はそれについて他の人々にも尋ねる必要があります・・・他にもあなた方にもっと伝えられる人がいるでしょう。あなた方は、あなた方が本当にそれがあったかなかったかの考えを得られる前に、多くの人と話す必要があります。」であると思われる。Al Beckerは現在、フロリダで隠居生活をしている。

氏名、部隊、手短な従軍記録をお願いします。
 私はAifred Becker、1924年生まれでケルン出身です。第326歩兵師団に所属していました。ノルマンディーとアルデンヌでの反撃に参加しました。私は1944年の秋にGefreiterに昇進し、1945年の1月19日に捕虜になりました。

あなたは戦闘中にDrillichanzug(HBTの制服)を着ましたか?
 いいえ、それはバカげています。私たちのDrillichanzugは白でした。もし着ていたら敵は私たちをウサギのように撃ち倒すでしょう。

あなたの制服と衣類について説明してください。
 Feldgrauのウールの上着とズボンです。私たちは靴を持っていて、映画にあるようなブーツではありませんでした。それと他のものと同じ色のコートですね。全てのウールはとても粗く、高品質ではありませんでした。私たちが下に着ていた物は長いニットシャツで、2種類ありました。1つは襟のついていないもので、カラーはボタンで上着の内側につけました。もう1つは襟付きでしたが、非常に質の悪いもので出来ていました。新品だとサンドペーパーのようでした。

どんな装備品を支給されましたか?
 フランスでのことはよく覚えていませんが、アルデンヌでは私は騎兵銃[Kar98kのことであると思われる]とスモークグレネードを携行していました。スモークグレネードは攻撃のときや逃げるときに身を隠すのに使いました。その後、分隊長になったときは短機関銃を携行していました。

どうしていくつかのErkennungsmarke(認識票)の血液型の欄が無いのですか?
 私たちは脚か肩のどちらかを選んで入れ墨をさせられました。私の脚は敏感だったので、肩にしました、見ますか?(シャツを捲り上げて、彼の左の肩甲骨のあたりの赤紫の“A”を見せる) 私は認識票をひもで首に下げていました。

野戦にSoldbuchを持って行きましたか?どのように携行していましたか?
 私たちは、隔離された場所や歩哨で外に居るとき以外は、野戦服のポケットに入れて携行していました。そのときは私たちの士官にそれを渡しました。私がノルマンディーで負傷したときは自分のSoldbuchを持っていなかったので、病院で新しいものを与えられました。

どんな歌を歌いましたか?
 私は歌うのが大好きです!私たちはErika, Lili Marlene, Als Wir Nach Frankreich Zogen, Muß Ich Den, Rosemarie、そのほかたくさん歌いました。よく歌いましたよ。

分隊か機銃要員、歩哨、もしくは訓練部隊の組織について教えてください。
 訓練のとき、私たちは12人かそれ以上のKorporalschaftenに配置されました。これはまた、私たちの兵舎の部屋の多くの人もです。部屋の1人はStubenaltesteで、彼は部屋がきちんと整理されていて、私たちが全ての知らせを通達されていることを確認します。これは本当の階級ではありませんでした。私たちのStubenaltesteは子供だと私は知っていました、彼は若かったのですが、ヒトラーユーゲントでジュニアリーダーだったので、本当に責任を果たせる、軍人向きだったんです。私はフランスで師団の補充部隊にいて、どのように組織化されたか覚えていません。秋に私が第752連隊に転属になったとき、私は分隊の副官であるStellvertretender Gruppenführerになりました。私たちの分隊は最初は9人いました。前線で数日たつと、その人数は少なくなりました。

Maketenderwäre:どんなものを買うことが出来て、どこで手に入れましたか?品物はどのくらいの値段でしたか?
 主に酒類やタバコでしたね。本や筆記用具、石鹸のようなものも手に入れることができました。私はKlorodontと呼ばれた歯磨き粉のことをまだ覚えています。私たちはそれをZahlmeister(主計課)が担当しているKantine[酒保]で手に入れました。値段は覚えていません。

Fußlappenか靴下、どちらを身に着けましたか?
 冬には両方身に着けました。夏には靴下が擦り切れるまで使って、それからFußlappenを使いました。

リュック、背嚢、Sturmgepäck(Aフレーム)、どれを持っていましたか?
 背嚢です。私は他の人がリュックを持っているのを見たことがあります。Aフレームは見たことがありません。
基礎訓練や教官、日々の規則、兵舎などについて説明してください。
それは非常に疲れるものでした、戦闘とほとんど同じくらい疲れましたね。教官はたいてい古参の人で、彼らは本当に色々なことを教えてくれました。私たちは日が出るより早く起きて、1日中走り回って、教室で座学を受け、夜遅くに寝ました。私がフランスに行ったとき、私はもっと訓練されました:そこで私たちはどのようにしてレジスタンスを見つけるかやどのようにしてJaboから身を隠すかを習いました。私が秋にハンガリーに行ったときには、さらに多くのことを習いました。

野戦糧食について説明してください。
 私たちはパンとMukefuk(コーヒー)を受け取りました。時々ピクルスもありましたね。私たちはたくさんのスープやEintopf(シチュー)も食べました。私たちのコックがたいていの食事を作ってくれました、私たちはまったく調理をしませんでした;前線では冷たいものを食べました。時々、私たちは地元の住民から食べ物を買いました。

何か勲章を受章しましたか?それを得る為にあなたは何をしましたか、どのようにして受賞しましたか、またどのようにして身に着けましたか?
 私は黒の戦傷章をもらいました。それは黒、銀、そして金という順番です。黒はもっとも低い等級で、軽い負傷を負ったときにもらえます。もしあなたが両足を吹き飛ばされたり、何回も負傷したら金のものがもらえます。私は病院で受け取りました。フランスで私の隣のヤツがPanzerfaustを撃とうとして、それが吹き飛んだんです。私ともう1人が負傷して、射手は死にました。医者になにがあったかを話したとき、彼は「いいえ、あなたは勘違いをしています。敵の銃弾がPanzerfaustに命中して、吹き飛んだんです。あなたは名誉の負傷を負ったんですよ。」と言いましたよ、あはは。私が病院を出て行くとき、私は勲章を新しい野戦服のポケットに着けていました。

どんな野戦帽を支給されましたか?被るのに何か特別な方法はありましたか?
 私はつばのある、野球帽のようでフラップの付いたものを受け取りました。被るのに一定の方法がありましたが、それがどのようなものだったかは忘れてしまいました。私たちはフラップを下ろしませんでした、それは覚えています。

"Putz und Flickstunde"とはいつ、何なのですか?何をしましたか?
 それは清掃と装備品、衣服の手入れと兵舎の掃除のことです。

あなたは喫煙しましたか?パイプ、葉巻、タバコ、何が一般的でしたか?説明してください。ライターはどうだったんですか??
 私はパイプを吸いました。これは若い人にさえ当時では人気がありました。小さなパイプでした、私はどのように火を点けたのかを覚えていません、私はライターを持っていたに違いありません。前線ではパイプが適していました。タバコは燃えているのが見えるので、銃弾が顔に向かって飛んで来安かったのです。これは歯によくありません。

もっとも酷かった場所を教えてください。
 アルデンヌ攻勢の間のSaint Vith近郊ですね。アメリカ兵は私たちを虐殺していましたし、天気も非常に悪かったです。

あなたが兵役についていたときの1番の思い出を説明してください。
 私には陸軍に多くの良い戦友がいました、そして私たちは私たちが出来る全ての方法で仲間を助けました。今では見ないものです。それはKameradschaftと呼ばれました。私たちは良い時間もそうでない時間も共にしました。

あなたのスカーフや手袋、冬用ブーツなどの冬用の衣料を説明してください。
 私はコートとKopfschutzer(トーク)、引き金を引くものの付いたミトン、ハイネックのセーターを持っていました。私は、たぶん私の師団だと思いますが、兵士が雪上用のカモフラージュのある服を着ているのを見ました。片面が白でもう片方が茶色のものを。私たちはロシアのものをコピーしたんです。私は同じくロシアのものをコピーしたフェルトの付いたブーツを履いている兵士も見ました。

Biwak(ビバーク)について説明してください。
 これは野外でキャンプをするという意味です。訓練期間を除いて私はやりませんでしたね。前線では私たちは建物の中に留まるか、野外で穴を掘って毛布を巻くかでした。

現地の住民との関係はどうでしたか?
 フランス人とは問題なかったと思います。しかしながら、私は彼らと何かをするような関係はありませんでした。私はとてもシャイで不器用な若者でしたから。私がハンガリーにしばらく居たときは、ハンガリー人ととても仲良かったです。

戦争が終わったとき、どう思いましたか?
 終わって嬉しかったと同時に、家族のことが不安でした。長い間彼らから便りがなかったのです。彼らは無事で、バイエルンに住んでいました。

あなたの指揮下で今までに誰かシラミを持っていましたか?
 持ってなかったと思います。

あなたは何か鹵獲した装備や衣類を使いましたか?
 私たちはJaboをだます為にアメリカのマーカーパネル[詳細不明]を持っていましたが、それはもしかしたらドイツ製だったかもしれません。

あなたの敵であるロシア人、イギリス人、アメリカ人に対してどう思いましたか?
 私たちはロシア人を恐れていました。私たちは、イギリス人とアメリカ人はフェアな状況なら打ち倒せると思っていました、しかし彼らは我々よりも多くの物資を持っていたので、戦闘は全くフェアではありませんでした。もしあなたがアメリカの歩兵部隊を撃つと、彼らは爆弾や砲撃であなたを木っ端微塵にするでしょう。これには本当にイライラしました。アメリカ人は本当にめちゃくちゃでした。多くの良い食糧、良い衣服、良いブーツ。しかし、彼らはとても人道的でした。1945年1月のいくつかの酷い戦闘のあと、私たちはとても疲れ、戦闘をやめた者もいました。私たちはとても疲れ、空腹で、アミーたちが私たちを撃つことなど気にしませんでした。しかし、彼らは実際には私たちをかなり良く扱ってくれました。

あなたの下士官や士官、政府に対してどう思いましたか?
 私の上官の大半は問題なかったです。多くの下士官は兵隊だったときがあるので、彼らはたいてい優しかったです。士官もたいてい私たちの側でした。彼らは私のことをmeine Kinder(私の子供たち)と呼びました。彼らは私たちのことを気にかけてくれ、私たちは彼らのためにベストを尽くそうとしました。多くの士官は彼らの部下と共に死にました。

あなたはFeldpost(手紙)を受け取ったり送ったりしましたか?どのような手紙でしたか?
 いいえ、いくつかの理由で私はあまり手紙を受け取ることはありませんでした、特に私が病院を出てからは。私は病院でいくつかの手紙を受け取りました。私は両親と家族にいつも手紙を書きました。

列車移動について何か覚えていることはありますか?
 鉄道は昔も、そして今も依然としてヨーロッパでは重要なものです。私がフランスへ向かう為にドイツを離れたとき、移動するのに十分な食料を受け取りました。知ってのとおり、たいてい列車は爆撃の被害やその他の理由で待ったり進路を変更したりする必要がありました。なので大きな箱に入った食料をそれぞれ受け取ったんです。パン、ボトルに入ったフルーツジュース、チーズ、ソーセージ、だいたい1週間保つのに十分な量です。想像してください、多くの空腹な男たちがこの大きな箱を持っていて、しかしMarschkompanie Feldwebelが私たちにどれだけ食べてよいかを伝えているのを。しかし、いくつかの理由で、移動には数日しか要しませんでした。私たちは終点で本当のご馳走を食べました。

今までにUrlaub(休暇)をもらいましたか?説明してください。
 病院を出た後、休暇を取りました。それは1週間か2週間だったと思います。私は病院の倉庫にあったいくぶん古い制服を着る必要がありました、私の古いのはかなり焼けていました。私はKantineに行き、家族のためにいくつかお土産を買ってケルンへの列車に乗りました。私の友人の多くは戦争に行ってしまったので、家族と過ごしました。私の彼女は病院で働いていたので、彼女に1回会いに行きました。

Jaboに対する防御はどのようなものでしたか?道のわきにシェルターがあったのですか?
 言ったように、私たちは彼らをだますためのマーカーを持っていました。私たちはJaboが彼らの味方を爆撃しようとしていると思わせるために、マーカーを私たちのStellung(陣地)の前に置くように想定していました。私たちは1度もそれを使いませんでした。私たちにはフランスで訓練部隊にいたときに見せられた道わきのシェルターもありました。

あなたは野戦でコートを着ないとき、どのように携行していましたか?
 もし持っていたら、私はそれを着ていました。Kaserne(兵舎)では、私たちはそれをロッカーの中に掛けていました。

対戦車戦闘であなたはPanzerfaustや地雷、スモークグレネードなどを使ったのを覚えていますか?
 フランスでイギリス人は私たちの位置を通り抜けて行きました。私たちは外の溝の中にいました。私たちは1人が戦車の1台をPanzerfaustで撃つことを決める前に、少し通り過ぎるのを見ました。それが彼の手の中で吹き飛びました。私はそれをかろうじて見ることができました、というのも吹き飛んだ砂利が目に飛び込んできて、頭に怪我を負ったからです、しかし私は下水溝を通って中隊がいる小さな農家まで行きました。トミーたちは私に向けてずっと撃ってきました。別の部隊がそこにいて、撤退しながら私を後送してくれました。私はアルデンヌで再びPanzerfaustを持ちましたが、最初に起きたことのせいで2度と撃ちたくありませんでした。しかし、私は彼らが使うのを見ました。それらはあなたたちのバズーカよりも非常に効果的でした。

Eiserne Portionen(缶詰の糧食)を支給されましたか?
 はい、命令があったときだけ、食べるように想定されていました。中身はなんだったか覚えていません。

Kettenhund(憲兵)について何か覚えていることはありますか?
 あなたがMPに対するものと同じです。私は1度も彼らとトラブルになったことはありませんでした。

時計を持っていましたか?それはどんなものでしたか、腕時計ですかそれとも懐中時計でしたか?
 私は小さいときに祖父が買ってくれた腕時計を持っていました。それの後ろには碑文がありました。私はそれをイギリス人と追加の毛布のために交換してしまいました。

ドイツ陸軍の典型的な懲罰はなんでしたか?装備や銃を紛失すると何が起こりましたか?休暇を超過したり士官に敬礼しないと何が起きましたか?
 私は1回もトラブルを起こしませんでしたが、もしあなたがトラブルを起こしたときはArreststelle(拘留する場所)に置かれ、パンと水しか与えられないでしょう。

カメラを持っていましたか?
 いいえ

HIWIについて何か記憶はありますか?女性のHIWIを見ましたか?どのようにしてあなたはHIWIだと判断できたのですか、特別な制服をもっていたのですか?
 はは、HIWIですか。長い間その言葉を聴きませんでした。彼らはロシア人のボランティアで仕事を助けたりコックを手伝ったり、衣服の修繕をしたり、Waffenmeisterを手伝ったりしました。あなたは彼らがしゃべったときにHIWIだと分かります:かろうじてドイツ語を話せる者もいました。

ドイツ兵が出てくる映画で、映画会社が犯したもっとも大きな間違いは何ですか?
 ドイツ兵はいつも汚らわしくて醜いです。そして攻撃のとき、彼らは愚かにもまっすぐ大部隊で走ってきて、全員ウサギのように撃ち倒されています。そして彼らはいつもVormarschzeit、戦争初期の格好をしています。長く輝いたブーツに、派手な制服、そしてピカピカのStahlhelmです。私や私の戦友たちはそんな格好ではありませんでしたし、あんな自殺攻撃はしませんでした。

あなたはポケットナイフを持っていましたか?それはどのよなもので、どこで手に入れましたか?
 ははは、私の戦友たちは私のことをナイフ男という意味のMesserschmiedと呼びました。私の父は肉屋で、私はナイフについてたくさん学びました。私が家から持ってきたものの1つがナイフを研ぐための小さな石です。私は本当にナイフを研ぐことが出来たので、みんな私のところに彼らのナイフを研ぎに来ました。私は少しのガンオイルを使ってナイフを研ぎました。私はたくさんのポケットナイフも持っていました。どこで手に入れたかは覚えていませんが、少なくとも予備の2つのナイフを常に持っていました。

兵士たちはビールや焼酎[シュナップスのことだと思われる]を飲むのを許されていましたか?どこで手に入れましたか?
 私は本当に戦争が終わるまで焼酎を手に入れませんでした。時々、フランスで現地の住民からワインを手に入れました。

あなたはガマシェンを付けましたか?兵士がガマシェンを捨てて、靴下でズボンのすそを巻き上げているのを覚えていますか?
 はい、兵士たちがそうしていたのを覚えていますが、どこで、なぜそうしたのかは覚えていません。私はガマシェンを支給されてそれを付けていました。ガマシェンは土がブーツに入るのを防いでいました。

野戦での埋葬をしましたか?説明してください。
 実際に、私は、戦死者がどのように扱われるかにすっかり驚きました。私が軍に入る前に、私は映画で兵士が墓地の近くで火葬され、彼の戦友たちがIch hat eine Kameradenを歌い、牧師が祈るのを見ましたよ。そして彼らが見事にすぐに死ぬか、平和に病院で素敵なナースの腕の中で死にました。私は、私が訓練期間のときに溺死した兵士の素晴らしい葬式に行きました。しかし、前線では私はそのようなものは決して見ませんでした。私たちがしたことは、穴を掘って、彼を埋葬することでした、もし時間があってもです。Saint Vithではただ彼らを積み重ねるか、雪の中に放置しました。地面は凍っていて、墓穴を掘れなかったんです。もし誰かが撃たれて、顔に命中して死んだら、彼の顔がねじれて固まったり、平らになったりして彼が誰だったのかさえ分かりませんでした。酷かったです。良い息子や良き夫が雪の中に縁石の上のゴミ袋のように放置されているのは。私は、1人の女性が前線にいる彼女の兵士のことを考えているのを示し、彼女が「私は前線にいる私のFritzl[おそらく夫か息子の名前だと思われる]のためにこれをやるの。」のようなことを考えているような感傷的な広告を覚えています。彼女が知らないのはFritzlが雪の中で死んでいることでした。私たちは戦傷者について家に手紙を送るのを禁止されていました。

敵の武器で何を1番恐れましたか?
 全部が怖かったです。みんな私を傷つけることができましたから。砲撃がとても嫌でしたが、私はSt. Vithの周りで多くの人が小銃や機関銃で殺されるのを見ました。私たちは開けた地形で戦っていて、あなたが考えるような木々の中ではありません。隠れる場所は何も無くて、私たちはウサギのように撃ち倒されました。Granatwerfer(迫撃砲)も嫌でした。飛んでくるのが聞こえないし、砲撃のように地面に埋まりませんからね。

戦後、故郷の人たちはあなたをどのように扱いましたか?
 みんな彼ら自身の問題で忙しくて、もう1人戻ってきた兵士のことなど気にしませんでした。しかし、連合軍がナチであったり、ナチを支援する理由のあった全ての教師、政治家、警官を一掃しました。戦時中に何かしらの権限を持っていた人はおそらくほとんど全員党員であったので、多くの良い管理者がその職を追われました。連合軍が任命した何人かは、あぁ、彼らは酷かったです。彼らの中には兵士を含めたReichのものを憎んでいる者もいました。彼らのせいで生活が辛くなりました。

あなたの、Eßbesteck(調理器具)やラードケースなどの、食事のための装備品を説明してください。
 私は折りたためるスプーンをポケットに入れていました。私が覚えているのはそれくらいです。


原文:米国のWebサイト Der Erste Zug
http://www.dererstezug.com/VetBecker.htm

  

2012年05月14日

ドイツで手に入れた煙草

 今回は、留学先の街のタバコ屋で手に入れた、フィルターの無いタバコを紹介しようかと思います。
調べた結果から言うと、以下の3種類のものはみな、戦前から作られているものだと思われます。

まず1つ目は
Roth-Händleという銘柄のものです。



製造会社は変わっているものの、1897年7月22日から製造され続けているとか。
当時はその強さ(タール・ニコチンの含有量)から、
„Lungentorpedo“ 「肺魚雷」
„Lungenzäpfchen“「肺の栓」
„Toth-Händle“「死の商人(死を意味するTodとTothはドイツ語では同じ音なのでかけてある?)」
„Roter Tod“「赤い死」
などと呼ばれたそうです(笑)
完全に憶測ですが、
魚雷などという単語が出てくる点を考えると、案外兵隊にもよく吸われていたのでしょうか?

1910年の広告を見ると、アルザス地方で作られていたようです。



次に、有名どころですが、フランス煙草のゴロワースです。



製造は1910年からのようですが、
現在のデザインになったのは36年からだとか。
メインのGauloisesの下に、小さくBRUNESとありますが、
これはタバコの種類を表すもののようで、この場合だと黒タバコ(Schwarzer Tabak)
という、香りの強い葉っぱを使っているのだとか・・・
別のものもあるそうですが、吸い比べたこと無いので分かりません;

最後に最初の「肺魚雷」と同じ会社で作られていたRevalです。



1920年ごろから製造されていたということしか分かりませんが、
デザインは当時からこのような物だったのかは、少々疑わしく思われます。
というのも、上記の2種類に比べて、鮮やかすぎるカラーリングなので。

イベントなどの小道具にちょっと使えないものかと思いましたが、
今更思うと、日本でも同様の問題がありますが、
ご丁寧に健康に関する注意書きがデカデカと書かれてしまっています。

こういう点を考えると、タバコですら、今となっては当時のものは貴重品なんですね。

 大して面白くもないものとなってしまいましたが、
以上となります。
※これらの煙草は、まだ未開封ですので、7月あたりのビクトリーショーか何かのイベントで
知人・友人たちと分け合って吸おうかと思います。

それでは、
Tschüs, bis bald Kameraden.

  

Posted by ハルトマン at 03:47Comments(0)日記

2012年04月18日

恥ずかしながら帰って参りました

 お久しぶりです。
4月1日の朝には成田に着いていたのですが、大学が急に忙しくなってきたのでなかなか
日記を書く時間が取れませんでした。

 結論だけ先に書くと、タイトル通りなのですが、軍装関係の物は残念ながら何も買うことができませんでした・・・
ハンブルクまでは行けなくはなかったのですが、
向こうでの語学コースがなかなか忙しく(毎日課題がどっさり&下手にサボると向こうの大学と提携してる自分の大学の名前に傷が・・・((((;゚Д゚))))ガクブル)、
自分のいた街(Würzburg)から出ることも叶わず、一度だけ仲間とニュルンベルクに遊びに行ったっきりでした。

 ただ、ニュルンベルクの鉄道博物館では、ドイツ鉄道(DB:Deutsche Bundesbahnだったり、Deutsche Bahnだったり、DR:Deutsche Reichsbahnだったり)の歴史を展示するだけあって、帝政ドイツのものやらNS時代のものやらと、色々とドイツにあってはイケナイものも見ることができました。

 次回の日記で、写真も含めて具体的にどういうものがあったかなどを書こうかと思います。

Also, bis bald Kameraden !

  

Posted by ハルトマン at 05:45Comments(0)日記

2012年03月01日

しばらく更新出来ません

 需要があまりなさそうな内容ばかり記事にしていますが、しばらく更新できなくなりました。
というのも、3月3日から4月1日までドイツに行ってしまうので;

 友人から当時のものを扱っているというハンブルクの店を教えてもらったのですが、
自分の滞在する予定の町から電車で往復10時間くらいの場所なので、
正直言って、行けるかどうか・・・
 行くとなると、向こうに一泊する必要があるかもしれません(笑)

 現地の状況によっては、向こうで実物のものを何か買ってくるかもしれません。
実物の陸軍の兵用バックル(鉄製・アルミ製・ジンク製など)も約90ユーロくらいと、こちらで買うよりも、それなりにお安いでしょうから。

 3月末のVショーとかに行けなくなるのは残念ですが、
その分、色々とこちらでは出来ないような調べものもできるかも・・・と、考えています。

 帰ってきたら、またそのレポートを書こうかと思います。
それでは、
Bis nächsten April, Kameraden !

  

Posted by ハルトマン at 11:00Comments(1)日記

2012年02月25日

野戦服の合わせ方

 
 本文に入る前に、まずこの記事を翻訳したものとはいえ、転載することを快く許可してくれたアメリカのリエナクトグループであるDer Erste Zug http://www.dererstezug.com/index.htm の方々、そして原文を書くために努力した方々や、翻訳に当たって協力してくれた友人たちに心から感謝したいと思います。
 これらの協力がなければ、今私達がこの資料を共有することは出来なかったと思います。
 I would like to thank Der Erste Zug for permitting to quote this article.
Without their efforts and generosity, we would not have been able to share these valuable research.


 ドイツ軍の1933年型から43年型のフェルトブルゼ:どのようにして合わせるか
著者:Ed Walton, タイピスト:Jonathan Bocek

 以下のものは元々www.lostbattalions.com. で出版された。Ed Walton氏に私たちが彼の記事である"German Field Blouse Models 1933-1943: How They Fit"をこのサイトで使うことを許可してくれたことについて特に感謝します。

 ドイツ軍は新しい野戦服(Feldbluse)を1933年に、"Reichswehr"時代に関係している1927年型勤務服(Dienstrock)と置き換えるために導入した。新しい野戦服によってドイツ兵たちは、現代的な風貌に更新され、それはすぐさま1934年と1935年のいくつかの変更で不朽のM36野戦服;NS時代でもっとも有名な制服(黒いSSのDienstanzugを除いて)へと洗練された。1933年に導入され、1934年に短くされた基本的なデザインは、戦車服(Panzerjacke)とM44野戦服を除いて第3帝国のほぼ全軍とナチ党の制服に推進された。 これらの制服のジャケットはどんな民間のスーツや現代の私たちの知っているどの国家の勤務服とも合致しないということを注意して欲しい。以下のものは第2次大戦のドイツ軍の制服の重要な合わせるための要素である:全体的な長さは短く(これについては下を参照してください)、アームホールは小さく、背部は狭い。これは着る者にとって全体的に腕の部分が小さく感じられ、肩の部分、そして胴の形がピッチリしているように感じられる。この感覚は一般的に、ジャケットのサイズが小さすぎるのだと誤解される。これは現代の衣類(素晴らしいイタリア製かヨーロッパのスーツを除いて)がもうこの合わせ方で作られておらず、誰もこの感覚に慣れていないからである。

フェルトブルゼは短い!
 野戦服を短くする事実上の目的は、機械化された環境に都合よく着る為にスカート部分(野戦服の下のポケットがあるような下の部分)を十分に上げることであり、それによって服の後ろの縁が乗り物のシートに触れないようになり、汚れないようになる。戦後、Hugoの息子によって設立された現在のBossの会社によって、Hugoは単なる仕立て屋であったと主張されるのであるが、Hugo Bossはたいてい、第3帝国の制服のしゃれた容姿のために人気のある雑誌によって批判されたりほめられたりする。もとはデザイナーであったにせよ、彼は並外れた奇術師であった;M33野戦服をただ単に6インチ(15.24cm)短くする代わりに、彼はすべての衣類を、背が高く見えるように作りなおした。

 まずその過程の初めとしては、袖口の終わりを親指の関節から手首の骨まで上げる(ちょうど3インチ:7.62cm)、手全体が見えるようにする。
 次に、前のスカート部分(詳細は上記を参照のこと)の縁を腕を下げた状態の人差し指の関節と同じ高さまで上げる(約6.5インチ:16.51cm)。
 3つ目に、後ろのスカート部分をもう2インチ(5.08cm)上げる、よってお尻の上半分だけが覆われるようになる。
 最後に、ベルトの位置をベルトの幅の分だけ上げる、それでベルトの下のラインがほぼだいたいヒジの曲がる部分と並ぶようになる。

 その結果は、その制服を着ている全ての兵士が彼の実際の背よりも数インチ高く見えるという目の錯覚である。短い丈のジャケットと高い位置にあるベルトによって、ほぼ全てのドイツ兵が整えられた胴と非常に長い脚と共に北欧の超人のように見せかけられるのである。伝えられるところによれば、この新しいデザインは事前に女性のグループ(私たちが今言うところのフォーカスグループ)に異性に対して望ましい効果があるかどうかを確かめる為に事前調査をしたらしく、それによって兵の士気を上げたという。

 以下の写真を、実際はどのようにドイツ軍の上着が合わせられると考えられていたかについて、より良く理解する為に研究してください。特に、手の位置と袖丈、着丈の関係について注意を払ってください。


 
上着のスカート部分の縁が背中から前にかけて下に下がっていることを表す良い写真です。これが典型的な第二次大戦の上着の型です。ズボンのポケットの下の部分が見えていることに注意してください。


右後ろのズボンのポケットに入っている財布がくっきりと見え、フェルトブルゼのスカート部分で覆われていないことに注意してください。また、後ろのベルトフックがひじの高さよりも上にあることにも注意してください。


この制服のスカート部分は袖の前の部分とちょうど同じ高さであり、袖の後ろは約1.5インチ(約3.81cm)スカート部分より低い。ひじの位置にあるベルトと、ズボンのファスナーの下2インチ(約5.08cm)がどのように見えるかについて注意してください。


この写真のフェルトブルゼのスカート部分の後ろの高さに注意してください。それは袖口よりも高い位置にあります。


袖口の終わりがちょうど手の上の方にあることに注意してください。また、ジャケットのスカート部分の縁が袖口の前の部分から約2インチ(約5.08cm)上にあり、袖口の後ろからは約3インチ(約7.62cm)上にあるということや、ベルトがひじの下の部分の高さに付けられていることにも注意してください。


フェルトブルゼのスカート部分がお尻の上半分しか覆っていないことに注意してください。これはスカート部分が斜めになっているためです。後ろは前に比べて1.5(約3.81cm)から2インチ(約5.08cm)ほど高くなっています。


これらのHBT作業服が明確に1934年から1944年の時代の、後ろが高く、前が長いということを表しています。ウールの制服の型はこれらの服の裏地やポケットの配列を除けば同一である。ズボンのポケットがはっきりと見えるということを注意してください。これが標準的なドイツの型です。


これらのものは、Der Erste Zugの方々から許可を頂いて転載させていただいています。
自分の翻訳は非常に稚拙なため、英語が少しでも出来る方は原文のものを読んでみることをオススメします。
自分の訳では伝わらないことも、英語のものではニュアンスなどから読み取れることもあるかと思います。
また[ ]の中は自分がおそらく理解しやすくなるだろう、ということで付け加えたものです。
この記事に関して、分からないことや、意味が分からないことがありましたら、コメントして頂けたら、自分のような若輩者でも答えられるものには答えていきたいと思っています。


原文:米国のWebサイト der Erste Zug
http://www.dererstezug.com/FieldBlouseFit.htm
  

Posted by ハルトマン at 00:31Comments(0)翻訳文ー兵卒の物ー

2012年02月06日

前線でのドイツ軍の糧食

 本文に入る前に、まずこの記事を翻訳したものとはいえ、転載することを快く許可してくれたアメリカのリエナクトグループであるDer Erste Zug http://www.dererstezug.com/index.htm の方々、そして原文を書くために努力した方々や、翻訳に当たって協力してくれた友人たちに心から感謝したいと思います。
 これらの協力がなければ、今私達がこの資料を共有することは出来なかったと思います。
 I would like to thank Der Erste Zug for permitting to quote this article.
Without their efforts and generosity, we would not have been able to share these valuable research.


前線でのドイツ軍の糧食
バルジの戦いの中、ドイツ兵たちが何を消費していたかについてのスナップショット
著者:Jeff Johannes; 編集および情報の追加:Doug Nash

導入
 この記事の目的は、第2次大戦中に前線のドイツ兵たちがどのようなものを食べていたかを調査することである。支給されていたと想定される野戦糧食の幅広い写真を挙げる代わりに、この記事では兵士たちの言葉によって彼らが実際に何を食べて彼らの体を維持していたかを説明しようと思う。さらに、この項目を深く追求するために、この記事では1つの作戦内の1つの部隊に焦点を絞ろうと思う。つまり、アメリカではバルジの戦いとして知られているドイツ軍によるアルデンヌ攻勢の最中の第352国民擲弾兵師団にである。

背景
 1944年12月16日、Wehrmacht(ドイツ国防軍)はこの大きな攻勢:暗号名Wacht am Rhein(ラインの守り)作戦を北部・中部のドイツ国境に配備されていたアメリカの第1軍へ対して発動した。作戦の中心はドイツ・ベルギー国境に面したアルデンヌの森林地帯であった。よく、この作戦の様子としてはルクセンブルクの北部で行われた攻勢が見落とされがちである。たいていの第2次大戦の歴史を研究するものにとって、ここはバルジの戦いの南部にあたる地域であると知られている。
 
 南部の攻勢に参加したドイツの師団の1つは古参部隊である352.Volksgrenadier Division(VGD:第352国民擲弾兵師団)である。第352国民擲弾兵師団、かつての第352歩兵師団はノルマンディーでの作戦中に引き抜かれ、最終的にドイツ本国に再建・再編成するために戻された。1944年10月、第352歩兵師団は新しいKriegsstärkenachweisung、もしくはドイツ軍によって始められたKstN(組織の表)にしたがって、第352国民擲弾兵師団と改名された。この師団は海軍や空軍、そしてフランスやポーランドなどの占領地域の民族ドイツ人の徴集兵の兵卒を加えて再編成された。この師団の主な戦力はその師団の擲弾兵連隊であり、それらは第914、915、そして916擲弾兵連隊によって構成されていた。もう十分に第352国民擲弾兵師団の個々の戦闘部隊は向上され、リバーシブルな冬用の迷彩服やSturmgewehrとして知られるMP-44突撃銃などを含む最新の戦闘装備に置き換えられたものもあった。

 師団やドイツ軍の様子として一般的には、糧食や食料の供給システムは向上されてなく、また機械化されてもいない。大部分において、第352国民擲弾兵師団はその連隊に野戦糧食や食事を、ドイツ軍が6年前に戦争が始まった時に使っていたのと同じ方法で供給していた。1944年12月の食糧供給システムは依然として主に、調理済みか調理された暖かい糧食を毎日、中隊か大隊のフィールドキッチン部門が馬やトラック、もしくは徒歩などの様々な方法で前線に送り届けることで構成されていた。



 前線にひとたび糧食が到着すると、それらはすばやく擲弾兵たちに、大抵は野戦食器や水筒に入れられるという形で後方に受け取りに行くという様に描写されるように分配された。その他のチョコレートやキャンディー、パン、玉ねぎ、コーヒーなどといったものはブランケットの上に置かれ、丸められることによって運びやすくされた。この記事を読んだ者は、このシステムが大部分においてバルジの戦いでは必要な量の食料を前線の兵士たちに運ぶのは、当時、多くの兵たちが毎日空腹に陥ったという結果から失敗したと分かるでしょう。もう1つの要因として、いつ、またはどのくらい遅く、兵士たちが彼らの糧食を受け取るか決定するかは、その距離-部隊が攻撃として前に移動すればするほど、フィールドキッチンを含む補給部門との距離は遠くなり、補給部隊にとって前線に食料を運ぶための移動距離ももっと長くなるのである。これらの食料輸送部隊はたびたび遅れて到着し、もし彼らが彼らの部隊を見つけられても、食料は冷たくなっていることがあったのである。

 ドイツはまた、米軍のCやKレーションと同様の個別の戦闘糧食を開発しようと試みたが、アメリカのものほど充実したレベルには達することは無かった(これらのレーションの追加の情報として、次の記事も参考にしてください:"German Iron Rations" http://www.dererstezug.com/IronRation.htm 著者:Doug Nash もしくは "The German Army K-Ration" http://www.dererstezug.com/germanration.htm  著者:Eric Tobey これらはDer Erste Zugのウェブサイトで公開されています)。この個別の糧食を輸送する方法は不成功であった、その原因としてはこれらの糧食を前線に届けるための補給システムの障害のためか、もしくは単に通常の暖かい糧食の支給に失敗したときに、基地に兵たちへの十分な量が無かっただけなのであろう。どちらの方法でも、ドイツの食糧供給システムは全体的にこの攻勢作戦に兵たちが必要とした戦闘のための力を適切に維持するためには不十分であった。

 よって、この作戦が始まったときに、352.VGDを含むドイツの食糧供給システムは既に、擲弾兵たちに十分に食糧を供給し続けることは不可能だったのである。バルジの戦いが1月まで長引いたとき、いつになく寒い冬に野外で過ごして悪化した適切な滋養の欠乏は平凡な擲弾兵の肉体と精神に大きな打撃を与えた。疲れ、空腹で、寒く、そして自分たちの食糧を捜しまわることを強いられれば、超人だけが、ドイツ軍がこの攻勢の始めに示したものと同じ熱意と戦力で戦い続けることが出来たであろう。

 以下のものは、この作戦中でドイツ兵たちが何を食べたのかについて、目撃者の記述によって拡大された概要である。

支給された食糧
 第352国民擲弾兵師団 第914擲弾兵連隊 第2大隊の擲弾兵であったUlrich JonathとHorst Hennigは、彼らがどのようにしてあの作戦を生き残ることが出来たのかを含めて、この作戦中のドイツ陸軍の兵たちへの食糧補給の試みを、「私たちの食糧供給は不十分でした。アメリカ軍から手に入れたチョコレートや、民間人の家から徴発した余剰食糧を除いては、何もありませんでした。」と、要約した。JonathとHennigはまた、前線で彼らが野戦糧食の調理を出来ないことについても言及した、「米軍による砲撃に対する警報のため、調理が出来るのは稀でした。」と。これは事実として、ドイツ軍が彼らの糧食を温める為に、単にストーブを用いるか、火を焚くという試みに関連している。彼らのエスビットは通常の火を用いるよりも多少は目立たず、米軍の砲撃がある程度緩和されたのだと考えられる。

 第915擲弾兵連隊 第1大隊 第3中隊のUnteroffizierであったWilhelm Stetterはまた、以下のようにスープの十分な支給について述べた、「私たちは10日で最初の暖かい食事を得ました、それはえんどう豆のスープで、人気の無い家に十分な量の豚の脂があったので、油が浮いていました。それで私たちは食べました、いや、私たちはその脂っこいスープを私たちが胃に詰め込めるだけ飲み込みました;深刻な消化不良と腹痛が2日間続きました。」



 第916擲弾兵連隊 第2大隊 第6中隊のHebert Brachは最後に、当時彼が受け取った最初のドイツ軍の糧食について後にこのように言いました、「私たちが丘のふもとにたどり着いたとき、そこには一塊のパンを持った兵士が立っていて、私たちはそれをスライスして、敵の砲撃で補給部隊が近づけなかったせいで、6日間も糧食を待っていたのでほとんど彼の手からそれを引き裂くように取りました。そしてこのパンは私たちに歓迎されました;私たちは事実、飢え死にしかけていて、このパンは素晴らしい味がしました。」


 第916擲弾兵連隊 第1大隊 第3中隊のFriedrich Schmaschkeは彼が冷たい糧食として何を受け取ったのかについて述べました、「食糧の支給は翌日まで延ばされ、結果的に私たちは暖かい食糧を再び得ました、有り難い変更です、それまでの数日間は軍のパン、嫌な味のするバターかマーガリン、それに人工のハチミツかジャムなどの冷たいもの以外何もありませんでしたから。」Schmaschkeはバルジの戦いの間の糧食に関係するいくつかの重要な情報を持った、典型的な兵士であると思われる。例えば、彼は食糧だけでなく雑用品についての再補給にも言及している、「彼(中隊のSpiess)が携行していたものは、その後中隊に分配されました。タバコ、葉巻、アルコール飲料、石鹸、くし、かみそりの刃、そしてチョコレートなどです。」ここで、Schmaschkeが再び述べるように、作戦中のそのとき、彼はまた、死んだり負傷したりしているドイツ兵の雑納をあさることによって何とかやっていた「そして、私はLongsdorfに自分の食べるものを探そうと戻りました。私に話しかけた一人の兵士が私にいくつかのアイデアを教えてくれました、農家へと道をさかのぼるようにと;戦死者や負傷兵の全ての装備品はそこの畜舎にありました。私が戦死者や負傷兵の荷物から数切れのパン、3つの缶詰、それに2つのSchoka-Kolaを見つけて畜舎から出てきたとき、1人の戦車兵が砲塔のハッチから顔を出して私に「やぁ、君、お腹空いてるかい?」とたずねました。私は「はい、でもどうして?」彼は私に一塊の軍のパン[コミスブロートを英語にした場合の訳なのだと思われる]を私に投げ渡しました。」

鹵獲された糧食
 バルジの戦いの間、ドイツ兵たちに最も求められた食糧のひとつが鹵獲されたアメリカの糧食である。バルジの以前、ドイツ兵たちはアメリカ軍の糧食の量に驚きおののき、彼らが封を開けた時その質にも同じく、実際に含まれている栄養を見て満足した第916擲弾兵連隊 第2大隊 第6中隊のHebert Brachは米軍の糧食を見つけてとても喜んだ、「その村(Bettendorf)で、私たちは修道院にあったアメリカの食糧と衣類の倉庫を手に入れました。そして私たちはその喜ばしい変化のために十分に食べる必要がありました。みんなアメリカ軍の糧食に舌鼓をうち、そして誰も私たちのフィールドキッチンがどこにあるかなど気にしませんでした。」Brachはもう1つの米軍の糧食についての話を続けました、「Bettendorfで擲弾兵たちは再び、彼らのポケットや雑納、assault packなどを打ち捨てられた無傷な米軍の糧食でいっぱいにしました。実際、それらを食糧で古い乳母車のように丸々とさせている者もいました。数日後の晩、フィールドキッチンがやっとDiekirchに、私たちに暖かい食事を支給するために来たが、誰も空腹ではなく、たくさん見つかったアメリカ軍のものだった糧食のご馳走に感謝していました。補給部隊の隊長はそこへ来て、水っぽいシチューを持ち帰らなければならないことになんどもイライラしていました。」

 いつも空腹だった第916擲弾兵連隊 第1大隊 第3中隊のFriedrich Schmaschkeも米軍の糧食についていくつかのことを言った、「私は海軍のものに近い、オリーヴグリーンのパックを見つけ、それを不思議そうに調べました。ワックスでコーティングされていたため、私は小さな茶色い紙箱を開けるのに手間取りました。それはピーナッツバター、クッキー、チョコレート、粉末状のコーヒー・紅茶、ガム、粉末ジュース、フルーツバー、タバコなどのもので構成されていました。」


 第352国民擲弾兵師団やアルデンヌでの作戦に参加していた全てのドイツ兵たちにとって、水を得ることやのどの渇きを癒すことは生き残るために必要なだけでなく、食べ物と同じくらい得難かったのだと思われる。第915擲弾兵連隊 第1大隊 第3中隊のUnteroffizierであったWilhelm Stetterは水を得ることについて簡潔に述べた、「私ののどの渇きはますます強くなっていきました、私は小川の流れる音を聞いたような気がしました、私は蛸壺から出て、音のしたと思われる方向へと行きました。それは正しかったのです。私はその底に小川の流れている、小さな渓谷の底に来ました。私はmess kit2杯分の冷たい水を飲みました。」

 第916擲弾兵連隊 第1大隊 第3中隊のFriedrich Schmaschkeは当時、単に水を汲んでくるのは危険な任務だったと回想した。「食糧を運ぶ人は毎晩、保温コンテナに入れた暖かい食事を持ってきました。私たちの飲み水は貯水池から高地まで持ってくる必要がありました。それが撃たれ、水は外にこぼれました、ゴポゴポと。1人が汲みに行くのに開けた野原を150m走って横切る必要があったので、私たちは夜にだけ水を汲むことができました。」

 のどの渇きを癒すには別の方法がありました。第916擲弾兵連隊 第15中隊のGunter Bachは別の方法でのどの渇きを癒そうと試みたが、これによってこの兵士は行軍中、悲惨な結果に見舞われることになった、「私はしょっちゅうのどが渇いて困っていました。なので私はすぐにそこらじゅうの木の下に落ちていた2つのりんごを拾いました。それらは霜に覆われていて、一部は凍っていましたが、私はすぐに2~3個をのどの渇きを癒す為に食べました。その結果は、その後すぐに私は酷い下痢に襲われました。」

その土地で手に入れた糧食
 アルデンヌでの作戦中、特にルクセンブルクでは、多くの市民が戦火から逃れる為に彼らの家から離れた。これらの放棄された家は何か食べ物を探している空腹の兵たちの標的となった。第352国民擲弾兵師団 第914擲弾兵連隊 第2大隊のUlrich JonathとHorst Hennigは食糧のために放棄された家々を探したことを述べた、「食糧の補給だけは、市民の居ない家からまだ受け取っていて、じゃがいもやりんごを乾燥させて守り、燻製の肉も含めて私たちが得た全てのものを保存していました。パンは無く、水は溶けた雪から得ていました。」

 第916擲弾兵連隊 第1大隊 第3中隊のFriedrich Schmaschkeも同じように食糧の捜索について思い出した、「農家のキッチンには・・・空腹を徐々に自覚しました、そして大きな食器棚の中を探すことを思いつきました。私はコーヒーと、引き出しの1番下には長い一塊の白パンを見つけました。」

 どこへ、どのようにして兵たちが彼らの食糧を運ぶのかに関して、彼らはたいていそれらを雑納か制服の上着やズボンのポケット、それだけでなく冬用戦闘服やコート、そしてもし持っていればおそらくリュック中にも入れていました。彼らは運べるものには限界がありました、というのも彼らはまだ弾薬や手榴弾、銃器、水筒などその他の野戦装備、それだけでなく分隊のMG42のために追加の弾薬箱を1つか2つ運ぶ必要があったからだ。

結論
 バルジの戦いの中のドイツ軍の神話の1つは、彼らがKing TigerやMe-262ジェット戦闘機の群れで良い装備をしている戦争の機械で、躍起になっている武装親衛隊と装甲擲弾兵の軍団であるというものである。この短い記事が証明しているように、実際はこの作戦中、ドイツ陸軍は前線の彼らの兵士たちに十分に食べさせ続けることさえ出来なかったのである。

もし、この作戦の研究やリエナクトをするときは、第352国民擲弾兵師団の写真に基づいて、以下のようにバルジの戦いの最中にドイツ兵たちが食べていたものが要約できる:

支給された糧食:パン、スープ、マーガリン/バター、ショカ・コーラ、1~2個の缶詰の肉(最も多い場合)

鹵獲された糧食:1944年に北西ヨーロッパで支給されていたタイプの米軍の糧食、主にCかK、それに加えてタバコ、コーヒーそしてホット・チョコレート・ミックス

その土地で得た糧食:パン、ジャガイモ、乾燥した肉、乾燥したりんご(これらの糧食は規定よりも稀に見られる。)

 この作戦の全体の結論として問題とすることが出来るのは、天候条件の回復や、米軍の機甲および歩兵師団の増援が連合軍を勝利に導いたということだけでなく、この第2次大戦中、ドイツ軍の最後の大規模攻勢の敗北は平均的な兵卒への食糧不足も一役買っているということである。

出典
ルクセンブルクでのバルジの戦い 第1巻 ドイツ人 (原題:The Battle of the Bulge in Luxembourg, Volume I: The Germans) 著者:Roland Gaul、出版社:Schiffer Publishing Company、出版年1995年

 これらのものは、Der Erste Zugの方々から許可を頂いて転載させていただいています。
自分の翻訳は非常に稚拙なため、英語が少しでも出来る方は原文のものを読んでみることをオススメします。
自分の訳では伝わらないことも、英語のものではニュアンスなどから読み取れることもあるかと思います。
また[ ]の中は自分がおそらく理解しやすくなるだろう、ということで付け加えたものです。
この記事に関して、分からないことや、意味が分からないことがありましたら、コメントして頂けたら、自分のような若輩者でも答えられるものには答えていきたいと思っています。

原文:米国のWebサイト Der Erste Zug
http://www.dererstezug.com/German_Rations_at_the_Front.htm


  

Posted by ハルトマン at 02:52Comments(2)翻訳文ー兵卒の物ー

2012年01月25日

HGG『ヒュルトゲンの森の戦い』

 


 参加された方々、おつかれさまでした。

1月の21・22日に開催されたHGG『ヒュルトゲンの森の戦い』に参加してきました。
幸か不幸か、個人的には今までにないくらい過酷なイベントとなったので、
自分は体調を崩してしまっていて、まだ詳細なレポートを書く事ができませんが、
この写真(部隊に随伴して写真を撮ってくださったPKのヴェーバーさんに感謝!)を見て、イベントの臨場感などが伝われば幸いです。
  

Posted by ハルトマン at 22:44Comments(0)イベント

2012年01月01日

Ein frohes neues Jahr !

 新年、明けましておめでとうございます。

 去年は3月の件もあって、大変な1年となってしまいましたが、ヒストリカル・フェストやコンバット、USAR、ウィンターフロントと思った以上にたくさんの野外イベントに参加出来て、充実したものだったと思います。
 室内のほうは相変わらずビクトリー・ショーに行ってましたが、
今年はブラックホールにもちょっくら行こうかと思っています。
 
 今年の目標としては

1. 教練の反復練習をすること
2. いろいろな人と知り合うこと
3. 装備品・服装のレベルを上げること

というふうに考えています。

 昨年お世話になった皆様、何かとご迷惑をかけるかもしれませんが、
このヒヨッコを今年もよろしくお願いいたしますm(_ _)m

  

Posted by ハルトマン at 10:38Comments(3)日記

2011年12月23日

分隊の散開隊形

 本文に入る前に、まずこの記事を翻訳したものとはいえ、転載することを快く許可してくれたアメリカのリエナクトグループであるDer Erste Zug http://www.dererstezug.com/index.htm の方々、そして原文を書くために努力した方々や、翻訳に当たって協力してくれた友人たちに心から感謝したいと思います。
 これらの協力がなければ、今私達がこの資料を共有することは出来なかったと思います。
 I would like to thank Der Erste Zug for permitting to quote this article.
Without their efforts and generosity, we would not have been able to share these valuable research.


以下のものはDie neue Feldpostとその出版者の許可を得たものです。彼の寛容さとこのページに貢献してくれたすべての方に感謝します。彼らの努力により、私たちはこの貴重な研究を共有することができます。
 この記事は1941年版の"Ausbildungsvorschrift für die Infanterie.(歩兵の為の養成規定)"の段落246~266から抜粋されたものである。この詳細にわたるコピーには1943年6月22日と注釈が付いていた。
 散開の命令は敵が撃ってきた時や、地形の関係、戦術的な状況など、密集隊形が実用的でない場合に適用された。散開隊形には基本的なものが2つある。

Die Schützenreihe[ディ シュッツェン・ライエ]:1列縦隊
Die Schützenkette[ディ シュッツェン・ケッテ]:1列横隊
 どのような分隊もどちらかの隊形になることがあり、分隊を団結させる。


 Schützenreiheは接近の際に用いられた(イラストAを参照)。これはまた、MGを単独で射撃し、そして常に地形によって利用可能なすべての遮蔽物を用いる機会に適している。
 この隊列になる場合、分隊はSchütze1である機関銃手Anschlußman[適切な訳不明、直訳では接続の人]を基準にする。この隊列の間隔はAbstandと呼ばれ、Schritt(歩、ステップ)を考慮している。



         黒丸=部隊長
         1=機銃手、2・3=MGの補助
         白丸=小銃兵
         半分の丸=副官

 もし、間隔が指定されてないときは、5歩と仮定する。分隊の副官(Stellvertretende Gruppenführer シュテル・フェアトレーテンデ グルッペンフューラー)は列の最後尾に居て、誰も後ろに残されていないかを確認する。




 Schützenketteは全部隊を射撃するのを容易にするための位置に就かせる[イラストBを参照]。分隊はこの隊形に合図かGanze Gruppe…Stellung!(ガンツェ グルッペ シュテルング)の命令でなる。別の命令で基本的に同じ意味を持つのはSchützenketteである。後者が分隊を横隊にするのに用いられるのは稀で、部隊が配置に就いていくときに時々用いられた。前者の命令は差し迫った銃撃戦を意味し、また命令が実行される時、分隊が止まることを意味している。



 この隊列になるとき、分隊はAnschlußmanを基準にし、前半分の小銃兵は右に、後ろ半分の者は左に展開する。全体の配置する方向を特に指示される場合もある。MGの周りに集中することは禁じられている。ここでの間隔はZwischenraum(ツヴィッシェン・ラオム)と呼ばれ、これもSchritt(歩、ステップ)を考慮している。Schützenreiheでは何も命じられなければ5歩と仮定した。部隊による前線での展開であるSchützenketteでは、短い動作に制限される。というのも、この隊形における長い動作は地形によって移動を難しくし、分隊の団結を損なうからである。
一般的に、敵や地形、隣からの情報の伝達などの会話を除き、散開隊形の時は話をしない。分隊長には散開隊形の時に特定の位置は無い。たいていは彼の指揮する分隊のすぐ前方にいるが、偵察するために遠くに移動する場合もある。 戦闘中、彼は分隊の中心に居る。特定の方向や目標が指示されてない場合は、Anschlußmanは分隊長に続く。



散開隊形の例
 
・前進の時、分隊長は疑わしい(敵の居る可能性のある)林のかどに分隊を1列縦隊で進ませたい場合。
 Richtung Waldecke Schützenreihe!
(リヒトゥング ヴァルト・エッケ シュッツェン・ライエ!:方向 林のかど 1列縦隊!) 部下は隊形になり、5歩の間隔を考慮する。

・分隊は生垣の方に向けて急いで1列横隊に10歩の間隔でなる必要があるとき。
  Richtung Baumreihe! 10 Schritt Zwischenraum! Schützenkette! Marsch! Marsch!
 (リヒトゥング バオム・ライヘ! 10(ツェーン)シュリット ツヴィッシェン・ラオム シュッツェン・ケッテ!マルシュ!マルシュ!:方向 生垣! 10歩の間隔! 1列横隊! 行け!行け!)

・分隊が小道の近くで休憩中に以下の命令が下された
Auf dem Weg in Schützenreihe! 2 Schritt Abstand Folgen! Marsch!
(アウフ デム ヴェグ イン シュッツェンライエ! 2(ツヴァイ)シュリット アプシュタントゥ フォルゲン! マルシュ!:道に1列縦隊! 2歩の間隔で続け! 行け!)
分隊は休憩を止め、分隊長に2歩の間隔をあけて続く。

・別の分隊が植林地の近くの野原で休憩中に命令された
Zum Besezten der Baumgruppe dort vor uns ! Ganze Gruppe Stellung !Marsch !
(ツム ベゼッツテン デア バオムグルッペ ドルト フォァ ウンス! ガンツェ グルッペ シュテルング! マルシュ!:我々の前方の森を制圧する! 全部隊 位置に! 行け!)
この分隊は森の中に移動し、そこを占領するために1列横隊になる。

・静止している分隊を1列縦隊にし、移動させるために、分隊長は命令する。
Front wie ich stehe! Abstand 8 Schritt! Schützenreihe!
(フロント ヴィー イッヒ シュテーエ! アプシュタント 8(アハト)シュリット シュッツェン・ライエ!:私が立っているところを前に! 間隔は8歩! 1列縦隊!)
兵たちは指揮官の位置を始点にして8歩の間隔をあけて列を作る。

・静止している分隊を別の目的(違う隊列や、動作など)の準備のために、森の淵に沿って横隊にさせるとき、分隊長は命令する。
Auf dieser Waldgrenze! Schützenkette!
(アウフ ディーザー ヴァルト・グレンツェ!シュッツェン・ケッテ!:森の淵に! 1列横隊!)


動作 

 すべての兵は移動の前に彼らの銃が安全か、弾薬ポーチや弾薬箱が閉まっているかなどを確認する責任がある。散開隊形はMarschの命令で始まる(急ぐ場合はMarsch!Marsch!)。短い横への移動も命じられることがある。後方への移動はKehrt Marsch!と命じられ、Halt! Kehrt!で終わりとなる。指揮官はこれらの動作の間、隊形の敵側に残る。

 前記の動作はHalt! Hinlegen! Volle Deckung!またはStellung!によって止められることがある。Haltでは、兵たちはGewehr abの態勢で立ち止まる。Hinlegenの場合はその場に伏せる。Volle Deckungではそれぞれ遮蔽物を探す。Stellungでは分隊にSchützenketteの隊形になるように命ずる。


集合
 
 分隊は縦隊の形で分隊長の後ろに集まる(Schützenreiheではない)。もし、小隊全部に集合が命じられた場合、分隊は行進隊形になる。集合の命令はSammeln(ザメルン)である。



 これらのものは、Der Erste Zugの方々から許可を頂いて転載させていただいています。
自分の翻訳は非常に稚拙なため、英語が少しでも出来る方は原文のものを読んでみることをオススメします。
自分の訳では伝わらないことも、英語のものではニュアンスなどから読み取れることもあるかと思います。
また[ ]の中は自分がおそらく理解しやすくなるだろう、ということで付け加えたものです。
この記事に関して、分からないことや、意味が分からないことがありましたら、コメントして頂けたら、自分のような若輩者でも答えられるものには答えていきたいと思っています。




原文:米国のWebサイト der Erste Zug
http://www.dererstezug.com/SquadFormationsInOpenOrder.htm

  

Posted by ハルトマン at 22:49Comments(0)翻訳文ー命令・戦術などー

2011年12月12日

Winter Front 2011

 ウインターフロントに参加されていた皆様、おつかれさまでした。

 忙しくてなかなか更新が出来ませんでした;



 今回は陸軍として、ハント分隊改めグローバー小隊として参加してきました。
なんだか全体的に、参加者が少なかったように感じられました。
おそらく土曜日の雨のせいでしょうかねぇ・・・?

 それでも、当日の飛び入りの方を含めて20人くらいで教練やら行進やらが出来たので、自分としては
1年を締めくくるのに良いイベントになったのではないかと思います。

 ちょっと日が空いてしまったので、残念ながら詳細は思い出せません;

 今後の課題としては、執銃・行進を含めた教練の練習かな・・・と思います。
というのも、自分で海外のサイトを翻訳しておきながら、挙動とかはまだまだ身についてないなぁ
と感じることが多々有りましたので・・・;

 翻訳しただけの文章というのも頂けないので、写真付きで
ある程度説明を簡略化した、重要なポイントを押さえたマニュアルを
時間があれば作ってみようかな・・・とも考えています。

 それと、自分の装備品もあまり良くないレプや代用品ばかりを使っているので、
ATFなどで良いものに随時代えて行けたらな・・・とも思いました。

 ・・・Kar98kのストックがプラってのも頂けないですし(笑)


 という感じで、あまりまとまりのないものになってしまいましたが、
参加した皆様、おつかれさまでした。
来年もこのヒヨッコをよろしくお願いしますm(_ _)m


※写真は、先輩方や友人たちとの1枚。
 小隊での集合写真が見つからなかったので、代わりにこれを使いました;



  

Posted by ハルトマン at 05:17Comments(0)イベント

2011年12月02日

Winter Front 2011 前日

 いよいよ明日から2日間、サムズさん主催のウィンターフロントに参加してきます。

 去年はW-SSのLAH合せで参加しましたが、今年は陸軍でハント分隊への参加ということになります。
今更思うと、ハントさんと知り合ったのが去年の初日に自分が酔った勢いで軍歌を一緒に歌わせて頂いたからなのですが、あれからもう1年経つのかと思うと、時が過ぎるのが早く感じられます。

 ガスマスクケースとガスシート、ツェルトバーン以外は、だいたい装備も揃っているので、そろそろ見た目だけではなく、動作や身振りも当時の兵隊らしくなれればいいな・・・と思います。

 日記を書きそびれてしまいましたが、今年のUSAR用にと新調して間に合わなかったM42野戦服とコートがあるので、今回は荷物が大変ですけれども頑張ってこれらを持っていこうと思います。
ド下手ながら、ハーモニカも持っていくので、時間があればちょっと吹こうかなとも考えています。

 あ、飯盒と水筒を洗わなきゃ・・・(´;ω;`)

 ・・・今年も徹夜からの参加かも知れません;

  

Posted by ハルトマン at 23:43Comments(0)イベント関連

2011年11月20日

ドイツ軍のガマシェン(レギンス)

 本文に入る前に、まずこの記事を翻訳したものとはいえ、転載することを快く許可してくれたアメリカのリエナクトグループであるDer Erste Zug http://www.dererstezug.com/index.htm の方々、そして原文を書くために努力した方々や、翻訳に当たって協力してくれた友人たちに心から感謝したいと思います。
 これらの協力がなければ、今私達がこの資料を共有することは出来なかったと思います。
 I would like to thank Der Erste Zug for permitting to quote this article.
Without their efforts and generosity, we would not have been able to share these valuable research.




 以下のものはDie Neue Feldpostから引用されたもので、出版者の許可も得ています。
私たちは出版者の寛大さだけでなく、この記事に貢献したすべての人に感謝したいと思います。
私たちがこの貴重な調査の結果を他の人たちと共有することが出来るのは彼らの努力によるものです。




 これらのもの(アンクルブーツとガマシェン)を彼らが得た時の評判は1943年の秋に10代の召集兵だったカール-ハインツ・ツィンマーマンの文章がもっともよく描写していることだろう。

 「私の兄弟が休暇で家に帰ってきたとき、彼は家の周りを素晴らしいブーツで歩いた。私は彼の為にそれを磨いたものだ。そのブーツは兵士と市民を区別していたもので、ドイツ兵のトレードマークだった。私が軍に入ったとき、軍は私に職人が履くような編み上げ靴とガマシェンを与えた。私たちは皆これらの周りをある種の女性用の靴を見るようにブラブラした。私たちはがっかりした。私たちはこれらのせいでトミー(イギリス人)の仲間のように見えた。」
この思いはおそらく少なからず新任の兵卒が思ったことだろう。

支給
 ガマシェンは当初、1940年8月8日の命令によってドイツ軍の装備品の製造に非常に広く使われていた革の節約の努力の1つとして導入された。この命令は、これらは後方部隊や補充部隊に支給されるように指定され、そして結局は完全にジャックブーツと置き換わると仮定されたが、ジャックブーツは最後までいくつかの部隊によって使われた。

 1944年までにアンクルブーツとガマシェンの組み合わせは陸軍のほとんどの部隊でありふれたものとなっていった。最初に兵士が戦場に持っていったものの多くは訓練のときに支給されたものに左右されていたために、いくつかの部隊ではジャックブーツとこれらの混用が見られた。しかし、いくつかの重要な‘部隊規模’の例外があり、それは写真と証拠文書によって示されている。

 A. 一定のエリート部隊はエリートの象徴として終戦の年であっても完全にジャックブーツが支給されていた。この影響に対する論評はGuy Sajerの『忘れられた兵士(原題"The Forgotten Soldier")』で見ることができる。
「最後に私たちは新しい服を支給された。その内のいくつかは私たちが知っているものとはまったく違う、上着は今日のフランス軍のようなもので、ズボンは短くつめられていて、厚いスパッツ(足首と靴の間から小石などが入るのを防ぐ為の覆い)があり、奇怪なゴルフの衣装のまねのようであった。この新しいデザインは大体が新兵に配られた。グロースドイチュラントはエリート師団として古いデザインを保ち続けた。私たちはさらに特権の現われとして新しいブーツさえもらった。」(P.354より抜粋)

 B. 駐屯地、訓練、基地、そしてその他のHinterland(後方)の兵士で、ジャックブーツを戦争の初期にもらい、またそれを履きつぶす要因のなかった者。このケースは2人の、たった数日兵役に就いた日が違う兵士のSoldbuchの比較がもっとも良く描写している。

 Herbert Ammann(ヘルベルト・アムマン)は1941年7月17日に兵役に就き、行軍靴(ジャックブーツ)を支給された。終戦の年、彼はロシアで戦っていた。彼の衣服と装備品の記録は戦闘から補給を受けるまでの間や、病院から戦場に行くまでにすべて換わっていた。1943年までに、彼の装備品にジャックブーツはもはや見られなくなった。1944年には今まで彼が履いていたジャックブーツは単なる残り物として存在していたのであろう、おそらくフィールドキッチンの蛇口の封としてか、どこかのロシアの農家の荷車のブレーキ・パッドとして。

 Melchior Krzowski(メルヒオール・クルツォヴスキー)(?)は6月24日に兵役に就き、同様にブーツを支給された。しかし、訓練を終えると彼はフランスのLa Rochelle(ラ・ロシェル)にある陸軍の駐屯地に配属された。彼の衣服や装備品は年間を通してほとんど換えられず、侵攻前[ノルマンディーなどの連合軍の反撃のことか?]の最後の記載は彼がジャックブーツを所有していたことを示している。頑固なフランスの牛を道から蹴り出したり、酔っ払ったU-boatの乗員を蹴飛ばす以外には、このブーツは使うのに問題はなかったのだと思われ、だからこそ時折の手入れだけでうまくやっていたのだろう。

 もちろん、このことだけから大まかな結論を出すのは慎重になるべきである。しかしガマシェンは兵卒にとってもっとも一般的なものであったのだろうが、ジャックブーツも依然として私たちが言ったように履かれていたのだ。
 ジャックブーツはガマシェンよりも兵たちに好まれていたので、ジャックブーツを自分で手に入れた者もいたであろう。Karl Anderssen(カール・アンデルセン)は1944年の終わりに海軍から陸軍に転属し、彼の海軍支給のジャックブーツを陸軍のPAKの砲手との賭けで失っている。
ガマシェン自体は明らかに兵卒には好まれず、彼らによって多くの良くないあだ名をつけられている。Timoschenko-Socken(ティモシェンコ[おそらくロシア人を指す?]の靴下)や、Rückzugsgamaschen(退却のガマシェン、そう呼ばれたのはこれが戦争の転換期に現れたからであろう)、Hunddecke(犬の毛布)などである。

説明
 左右のものが製造され、茶色か緑色のキャンバスで陸軍のものが作られ、空軍用は青である。これには2つの主要なデザインの種類がある。(下のイラストを参照)



 ガマシェンAは緑色のキャンバスで黒い革が付いている。バックルは黒く塗装されたローラーが付いた鉄で、ストラップの終わりは革のループである。下の補強は幅3/8インチ(約1cm)の革で作られていて、下の端に沿って縫い付けられている。ガマシェンの真ん中には幅1インチ(約2.5cm)の補強が縫い付けられている。



 ガマシェンBは同じく緑色のキャンバスでできているが、茶色の革が付いている。この例のバックルは灰色に塗装された鉄製で、ローラーは付いておらず、ストラップの終わりのループは革である。いくつかのこのタイプのガマシェンを調べたが、黒い革の付いたもの、そして金属製のストラップの終わりのループがあるものはBundeswehrのモデルに似ている。Aとの主な違いは下の補強にある:このモデルは鋭い半月型の革が前後の内側に縫い付けられている。
 たいていのガマシェンは無標であるが、調べたBタイプのものの1つには判読できないメーカーのマークと、44という年月日(?)があった。
 Bundeswehrのモデルは基本的に第二次大戦中のものと以下の例外を除けば同じである:アルミニウムの金具、すべての革が黒である点、そして色がWehrmachtのものよりも灰色な点である。さらに、今回調査した大戦中のガマシェン8組はいずれもストラップに3つしか穴が開いていなかった。典型的なBundeswehrのものは5つ穴があり、ストラップも長いものである。

着け方
 ガマシェンはどのタイプのズボンでも装着できるが、特にM43ズボンはガマシェンとともに用いるようにデザインされている。ガマシェンは常にスカラップ[おそらくBタイプの補強のことか]や補強が下に来るように着けられ、ストラップの余り(終わり)は後ろに来るようになる。



 ズボンの下(足首に近いところ)が垂れているのはズボンの股下の縫い目をボロボロにすることにつながるので、ガマシェンを着けるときは垂れたズボンの下を折るという所定の方法があった(イラストを参照のこと)。この方法では折り返し部分が内側から外側に折られている。
 兵士たちの間には彼らのガマシェンを無駄にし、彼らのウールの靴下の履き口をアンクルブーツの履き口まで下げるというヨーロッパのハイカーの習慣のようなものがあった。これは規則違反であり禁止されていたが、これが行われていたという写真の証拠とベテランの陳述もある。




 出典
- The Forgotten Soldier by Guy Sajer
- Uniforms and Traditions of the German Army, Vol. I by John Angolia
- Interview with Karl-Heinz Zimmermann, dated August 8, 1989
- Interview with Karl Anderssen, dated March 22, 1990

・忘れられた兵士 著者:Guy Sajer
・ドイツ陸軍の制服と伝統 第1巻 著者:John Angolia
・Karl Heinz Zimmermannとのインタビュー 1989年8月8日に実施
・Karl Anderssenとのインタビュー 1990年3月22日に実施

 これらのものは、Der Erste Zugの方々から許可を頂いて転載させていただいています。
自分の翻訳は非常に稚拙なため、英語が少しでも出来る方は原文のものを読んでみることをオススメします。
自分の訳では伝わらないことも、英語のものではニュアンスなどから読み取れることもあるかと思います。
また[ ]の中は自分がおそらく理解しやすくなるだろう、ということで付け加えたものです。
この記事に関して、分からないことや、意味が分からないことがありましたら、コメントして頂けたら、自分のような若輩者でも答えられるものには答えていきたいと思っています。


原文:米国のWebサイト Der Erste Zug
http://www.dererstezug.com/Gamaschen.htm

  

Posted by ハルトマン at 03:48Comments(0)翻訳文ー兵卒の物ー