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Posted by ミリタリーブログ at

2012年08月21日

Drei Lilien ~三輪の百合~

 今回は、イベントで歌えるような覚えやすい歌詞の歌を一曲紹介しようかと思います。

 ドイツ軍で隊列を組んで行進するにあたって、歩調を合わせて歩くために、
Winterfrontやその他のイベントなどでも歌を歌いながら行進するというのがあります。

 ただ、当時歌われていたであろうドイツ語の歌を歌うわけなので、
日本人には正直言って厳しいものがあります。
よって、今回はドイツ語の原文の歌詞の下に、カタカナでの発音をふって、
ある程度覚えやすい、読めるものにしていこうと思います。
構造としては以下のようになります

・ドイツ語原文
・(フリガナ)
・歌詞の日本語訳

 ただ、あくまでもこのフリガナは自転車で言うところの補助輪のような役目を目的としているので、
可能ならば行進するときにドイツ語っぽく歌えるようにというのが、最終的な目標です。
 
 また、今回のフリガナは現代のドイツ共通語(Neuhochdeutsch)の辞書発音を元にしているものです。
歌う場合は、必要ならば発音をちょっと変えて、歌いやすいように語尾などを省略するなど、
各自で試行錯誤して頂ければ幸いです。

 前置きが長くなりましたが、今回紹介するのはタイトルのとおり、Drei Lilienという歌です。
93年のドイツ版スターリングラードの後半で、アコーディオンで歌なしで演奏されていたりします。

 
 Drei Lilien, drei Lilien,
 (ドライ リーリエン, ドライ リーリエン,)
 三輪の百合、三輪の百合を

 Die pflanzt' ich auf mein Grab,
 (ディー プフランツト イッヒ アオフ マイン グラープ)
 私は自らの墓に植えた。
 
 Da kam ein stolzer Reiter
 (ダー カーム アイン シュトルツァー ライター)
 そこに一人の立派な騎兵が来て

 Und brach sie ab.
 (ウント ブラッハ ズィー アプ)
 それを持っていってしまった。

 Juvi valle ralle ralle ralle ra
 (ユヴィ ファレ ラレ  ラレ  ラレ  ラー)
 ララ ララララ ララララ ラ

 Juvi valle ralle ralle ralle ra
 (ユヴィ ファレ ラレ  ラレ  ラレ  ラー)
 ララ ララララ ララララ ラ

 Da kam ein stolzer Reiter
 (ダー カーム アイン シュトルツァー ライター)
 そこに一人の立派な騎兵が来て

 Und brach sie ab.
 (ウント ブラッハ ズィー アプ)
 それを持っていってしまった。


 本来ならば、2番も勿論あるのですが、音源によって歌詞がマチマチなので、今回は1番のみにさせて頂きます。
 
 実質、4行を覚えればいいので、ErikaやWesterwaldliedなどのお馴染みの曲に比べれば
比較的覚えやすいかと思います。

 歌詞、日本語訳については以下の方から引用・改訂させて頂きました、この場を借りて感謝いたします。
 西洋軍歌蒐集館
 http://gunka.sakura.ne.jp/index.html
 
 音源はYoutubeなどに散乱していますが、聞き取りやすいと自分が思うのは以下のものです。
参考までにお聞きくだされば幸いです。
http://www.youtube.com/watch?v=x8q-UFDBl9k

 後半にZehntausend Mannという別の歌がメドレー形式で入っていますが、こちらも短い歌なので
今後、紹介できればと思っています。

では、
Bis bald, Kameraden !  

Posted by ハルトマン at 12:12Comments(0)

2012年08月06日

個人・部隊による敬礼

 本文に入る前に、まずこの記事を翻訳したものとはいえ、転載することを快く許可してくれたアメリカのリエナクトグループであるDer Erste Zug http://www.dererstezug.com/index.htm の方々、そして原文を書くために努力した方々や、翻訳に当たって協力してくれた友人たちに心から感謝したいと思います。
 これらの協力がなければ、今私達がこの資料を共有することは出来なかったと思います。

 I would like to thank Der Erste Zug for permitting to quote this article.
Without their efforts and generosity, we would not have been able to share these valuable research.

 今回のものは、筆者が、わかりにくい点には例などを付け加えていますが、
英語で書かれている号令をドイツ語のものにするなど以外は、原作者の意を組んでそのままにしてあります。
しかしながら、ドイツ語から英語、日本語と2回も違う言語へ翻訳されると、その意味も違ってくる場合がありますので、
以下の事柄に興味のある方は、あわせて当時の映像資料(Die deutsche Wochenschauなど)なども参照されることを強くお勧めします。
 また、最後の挨拶に関しては、音声資料の不足等から、筆者自身は違和感を覚えましたが、それを否定する材料を持ち合わせていませんでしたので、そのまま掲載させていただきます。 今後の調査で、その内容を変更させていただく場合がありますので、ご了承ください。
 少なくとも、現代においては”Heil”などと挨拶は行いません。


個人・部隊による敬礼
敬礼の義務
Der Rekrutからの引用
________________________________________

 以下の、下士官兵にも適用可能であろうものは『駐屯地任務のための規則[原題:Regulations for Garrison Duty]』からの抜粋である。これは、英語に翻訳された1935年のドイツ軍の教本から引用されたものである。Der Rekrutの抜粋をこのサイトで使うことを許可して下さったMichael Bollow氏に感謝します。もし、この教本を購入したい場合は、彼のウェブサイトであるhttp://members.aol.com/soldaten/rekrut.htmへどうぞ。
 このサイトに付け加えてあるドイツ軍の敬礼の画像の例はRay, Josephine Cowdery(名前からして著者とその奥様でしょうか?)のPapers Please![直訳した邦題:許可証をお願いします!]から引用されています。この本は、第二次大戦中のドイツの事務職[書類を扱う職業のことを指す?]についてより多くを学ぶ為に素晴らしいソースです。


個人での敬礼
________________________________________

制服を着た個人が以下の場合において敬礼する場合:
・総統・首相[原文では-of the Reichとありますが、ドイツの事だと分かるかと思うので省略させて頂きました。]および国防軍最高司令官
•戦争省大臣[聞き慣れない省ですが、かつては存在したそうです。]、国防軍総司令官、地方警察で同等の階級を含む、制服を着たすべての上位階級の者、また同様に制服を着た旧陸軍、旧海軍、かつての国防軍の者。
•旧陸軍およびかつてのseagoing battalionの旗・軍旗[原文で言うところの旗(banner)と軍旗(standard)の違い・訳し方、seagoing battalionが何を意味するかの2点については自分も難解な為分かりかねます。どなたかご存知の方がいましたら、コメント頂けると嬉しいです。]
•海軍の総司令官により決定された旧海軍の軍旗、地方警察の旗

 姿勢を正して着帽しており、 通りすがりか、上位階級の者に向かって立っている(もしくは座っている)場合:右手を帽子またはヘルメットへ添える[要はよく見るタイプの敬礼※1] 無帽の場合:Deutscher Gruß※2[日本語で言うところのナチ式敬礼だとか呼ばれるもの]をする。




 もし、その兵士が何か物を持っているなどの理由で敬礼ができない場合、敬礼の代わりに姿勢を正して歩いたり、座っていたり、気を付けの姿勢で立つ。座った状態での敬礼が容認されるのは、それが必要とされる状況であるか、または狭い車両の中や走行中の車両の中などのように立って敬礼が出来ない場合のみである。その他すべての場合、下位階級の者は敬礼するときに立つ必要がある。
 下士官兵はまた、かつての国防軍の一員や、旧陸軍・海軍の者を含む、礼服姿の従軍牧師のような、制服を着た国防軍の文官にも敬礼しなければならない。
敬礼は素早く、きびきびとしなければならない。敬礼は、上位階級の者の5歩前から始め、通り過ぎて2歩経ってから終える、もしくは部屋に入る時、出る時に行われる。
 酒保を含む兵舎の室内や役所、他の宿泊施設、「注目!(または、気を付け。原文のAttentionからは正確な意味が読み取れないため)」の号令を当直将校が発した場合や、将校や小隊付き(中隊付き)の軍曹が彼らの場所に来た時などに、全員が起立して「休め」の号令を言われるか、部屋を出ていくまで上位階級の者に向かい姿勢を正す。最も古参の階級の者が上位階級の者が来たことを知らせる。事務室などでは「注目」の号令はされず、また上位階級者が来たことも知らせられない。敬礼は座った状態で、上位階級者が部下に話しかけるまで行われる。
公共の交通手段や待合室、寄宿舎、ガーデンカフェ、劇場、コンサートホール、講演室(レクチャールーム)のような兵舎以外の狭い場所では、上官・部下が互いに挨拶する距離まで近づいた場合に敬礼をする。敬礼はその状況に応じて行われる。

 最初に上位階級者に気がついたものが、彼の仲間に適宜、礼儀として敬礼するように知らせる。
敬礼する前に、タバコを銜えるのをやめ、手をポケットから出すなどをする。おしゃべりをしながらや、上記のような物を手に持ちながらの敬礼は許可されていない。
 馬に乗っている時、もし任務に関する物事が妨げられないのならば、歩きながら敬礼をする。馬に乗っている上位階級者を下位階級者が追い越して行きたい場合、そうして良いかどうかを訪ねなければならない。(野戦訓練中や作戦行動中を除く)自転車を運転する人、運転手、騎手は座った状態で姿勢を正す。


個人で行われるべきではない敬礼:
a.車両が動いている状態で、自動車の運転手、または教習生に同乗している軍の運転教官による場合
b.もし交通や自身の安全を危険に晒す可能性のある場合における、自転車、自動車の運転手、騎手や自動車の乗員による場合
c.任務にあたっている部隊の兵士による場合、もしこれらの兵士が上位階級者に話しかけられた場合、彼は起立もしくは座った状態で姿勢を正す:射撃訓練、もしくは戦闘の最中、装備品を身に付けての訓練の最中など
d.駐屯地の指揮官または部隊指揮官の特定の命令の下で、乗馬用逍遙道や乗馬場にいる場合
e.乗り物に乗った伝令による場合


隊列を整えた部隊による敬礼
________________________________________

隊形の部隊による敬礼は、駐屯地内または兵用宿舎内でのみ行われ、大隊の、敬礼をする(下士官と)兵の指揮の下で行われる:
•総統および首相
•戦争省大臣
•地方警察で同等の階級を含む、制服を着たすべての将校
•旧陸軍およびかつてのseagoing battalionの旗・軍旗[原文で言うところの旗(banner)と軍旗(standard)の違い・訳し方、seagoing battalionが何を意味するかの2点については自分も難解な為分かりかねます。どなたかご存知の方がいましたら、コメント頂けると嬉しいです。]
•海軍の総司令官により決定された旧海軍の軍旗、地方警察の旗

着帽した状態の隊形の部隊
 徒歩で行進中の部隊の場合、敬礼はparade-stepping※3(グースステップ)により行う。(途足[みちあし:隊形は崩さないが、歩調を合わせないこと]で行進していた場合)Im Gleichschritt, marsch![原文ではQuick step, march!:英語に訳す際に齟齬が生じたのか?]、Achtung, Augen rechts(links)![号令については別記事を参照]の号令が出され、Achtungと聞こえたら、グースステップで歩き始める。敬礼の終わりには、 Augen geradeaus, marsch!またはOhne Tritt, marsch!の号令が途足で歩く場合に出される。
 馬または車両に乗って移動中の部隊の場合、敬礼のための号令はAchtung! Augen rechts(links)!であり、Achtungが聞こえたら、座ったまま姿勢を正し、命令の通りにする。Augen rechts(links)!の号令が出されたら、車両の後席の人員は顔の向きを変え、反対側4に目を向ける。敬礼の終わりには、Augen Geradeaus! の号令が出される。
車両で行進している部隊は指揮官の合図で敬礼し、それは車両の運転手を除く全ての随伴している人員によって繰り返されることになっている。
 徒歩で止まっている部隊の場合、指揮官はAchtung! Augen rechts(links)! と号令をかける。馬上もしくは車両に乗っている部隊で止まっている場合、号令は[同じように]Achtung! Augen rechts(links)!となり、階級の高い将校を注視する。もし彼が部隊に沿って歩いていたり馬に乗っていたりする場合は、全員が彼の方を向き(頭を向け)、彼が2歩通り過ぎるまで注視し、そのあと頭と視線を正面へ向ける。もし部隊が降車している場合、Achtung!の号令が出されたら、馬または車両に1歩寄る。指揮官は所定の位置へ行く。Rührt euchの号令が出たら、敬礼をやめる。

無帽状態で隊列を整えた部隊の場合
 無帽状態で隊列を整えた部隊は着帽状態と同じように敬礼をする。しかし、この場合、もし部隊指揮官も無帽状態ならばDeutscher Grußを行う(例を挙げるならば、スポーツ用の服装をしていた場合などである)

隊列を整えた部隊にとって、以下の場合は敬礼をするべきではない:
a.持ち場以外の場所または兵舎の外
b.行進の後、Rührt euch!の号令が出された場合、または止まっている場合。兵が行進中に指揮官とすれ違う場合、各々が彼を姿勢を正して見る。歩兵は号令で銃のスリングをピンと張る。
c.作業用具を用いて土木作業中の場合。指揮官のみが敬礼または挨拶をする。
d.路上警備の場合。警備の指揮官と部下は個々人で敬礼、または挨拶をする。

 隊列を整えた部隊に敬礼されないWehrmachtの人員は、単に指揮官によって敬礼されるか挨拶される。途足[みちあし]で行進している場合(もしくは休めの場合)、各々の兵士は好きなように市民に挨拶して良い。


敬礼する義務
________________________________________

以下の場合には互いに敬礼する相互義務がある:
a.Wehrmachtの人員同士の場合、規則に関わる敬礼で無い場合に限り、制服を着た地方警察やかつてのWehrmachtの者、旧陸軍、または旧海軍の者も含む。
b.Wehrmachtの人員。警官と局地的な警官(憲兵);公務中の森林管理職員と鉄道警察、DLV[Deutscher Luftsportverband:ドイツ航空協会]とRLB[Reichsluftschutzbund:国家防空連盟]、SAとその下部組織、SS、NSDFB[Nationalsozialistischer Deutscher Frontkämpferbund:鉄兜団(StahlhelmまたはBund der Frontsoldaten)の後身である国家社会主義ドイツ前線戦士連盟]、FAD[Freiwilliger Arbeitsdienst:RAD(国家労働奉仕団)の前身である団体]のメンバーおよびナチ党の政治的指導者たち

以下に対して個々人は更に敬礼する必要がある:
a.隊列を組んで行進中の警察、DLV、RLB、SAとその下部組織、SS、NSDFB、Reichstreubund、Kyffhaeuserbund退役軍人協会[この2つは詳細不明なため、情報募集中です]、FAD、ヒトラー・ユーゲント、その他の国家社会主義の政治組織の旗と旗手に対して。例外としては、SAとSSの指揮旗と、BDM(Bund Deutscher Mädel:ドイツ女子同盟)とJungvolk少年リーグの優勝旗である。
b.ドイツ国歌またはホルストヴェッセルの歌が演奏されている間。
c.記念碑に近づくか入るとき
d.葬式の時
e.上官が私服で、兵が彼[彼ら]を知っている場合


制服を着ていて、着帽した兵士の場合、普通の敬礼がかいつまんで言うと敬礼の規則である。
制服を着ていて、無帽または私服の場合、Deutscher Grußを用いる。

 階級の低い者、または新任の者が先に敬礼をする。仮に、Wehrmachtの者でない者に敬礼していても-兵士らしくキビキビと敬礼するのは、兵士たちの間での敬意の問題である。
既に論じられているが、一定の個人は敬礼の義務を免ぜられている。(例:車両の運転手、乗り物に乗っている伝令など)

自発的な敬礼
 外国の軍人が先に敬礼した場合、任意の敬礼が期待される。隊列を組んだ部隊は敬礼しない。もし敬礼が必要とされる場合は、部署の先任士官または艦の指揮官がそう命ずる。

答礼
 もし、上官が兵士の敬礼に対して”Heil”や”Guten Morgen”などと言った場合、同じ語句を用い、さらにHerr+上官の階級を付け加えて返事をする。
[例:ある少尉(Leutnant)が2等兵(Grenadier)に挨拶した場合]
Leutnant:Guten Morgen.
Grenadier:Guten Morgen, Herr Leutnant !

 上位階級の者が隊列を組んだ部隊に対して挨拶する場合、”Heil”にその部門または部隊の名前が加えられる。部隊側は”Heil”にHerr+上官の階級を添えて返事をする。戦争省大臣の場合は”Heil, Herr General !”、総統である帝国の首相の場合は”Heil, mein Führer”となる。
________________________________________
※1  44年7月20日に試みられたヒトラー暗殺以後、軍の敬礼は変えられた。伝統的な”軍の敬礼”である、手を帽子のつばまたはヘルメットの淵に当てるものは以後禁止された。 Deutscher Grußまたはナチ党式の敬礼をWehrmachtの公式な敬礼とするよう命令された。 多くの兵士がDeutscher Grußを馬鹿馬鹿しく、非現実的なものと考えた。ある退役軍人が言うには、この新しい命令の後、「飯盒を右手に持って、”党への忠誠”を示すのを強いられるのを妨害するという行為は、中隊の中でも珍しいものではなかった。」そうである。
※2 "Deutscher Gruß ”:ドイツ語でのナチ式敬礼のこと。たとえこれが公式な規則であったとしても、政治的な問題からリエナクターはこの敬礼をしないことをお勧めします。
※3 "Parade-stepping" (Exerziermarsch) : ドイツ語でグースステップのこと。
※4 反対側: 外見上、車両の後部座席に座っている者は逆の方向を向いているということ。


原文:米国のWebサイト Der Erste Zug
http://www.dererstezug.com/salutes.htm

  

Posted by ハルトマン at 19:48Comments(1)翻訳文ー命令・戦術などー

2012年08月02日

Alfred Becker氏へのインタビュー

 
 本文に入る前に、まずこの記事を翻訳したものとはいえ、転載することを快く許可してくれたアメリカのリエナクトグループであるDer Erste Zug http://www.dererstezug.com/index.htm の方々、そして原文を書くために努力した方々や、翻訳に当たって協力してくれた友人たちに心から感謝したいと思います。
 これらの協力がなければ、今私達がこの資料を共有することは出来なかったと思います。

 I would like to thank Der Erste Zug for permitting to quote this article.
Without their efforts and generosity, we would not have been able to share these valuable research.




Alfred Becker
________________________________________
Eric Tobeyによるインタビュー

 このインタビューはDie Neue Feldpostから引用されたもので、出版者の許可を得ています。私たちは出版者の寛大さに感謝するとともに、この記事に貢献した全ての人にも感謝したいと思います。彼らの努力によって、私たちはこの貴重な研究をあなた方と共有することが出来るのです。
この記事の大半は以前、1989年の秋にDer Meldewegと呼ばれる公報に掲載された。これは、おそらく6回のBecker氏との会話と、私たちの「ドイツのベテランへの101の質問」の発展の産物であるものなどを代表とする質問の結果である。私たちは容量の問題からいくつかの質問を省略する必要があった、おそらく私たちは、それらを以下の質問の中で述べることになるであろう。Becker氏は多くの詳細な事柄までは完全に思い出せなかったが、彼は他の誰よりも、私たちの研究の努力が実際にあるということを信頼している。彼がもっともよく使った言い回しは「あなた方はそれについて他の人々にも尋ねる必要があります・・・他にもあなた方にもっと伝えられる人がいるでしょう。あなた方は、あなた方が本当にそれがあったかなかったかの考えを得られる前に、多くの人と話す必要があります。」であると思われる。Al Beckerは現在、フロリダで隠居生活をしている。

氏名、部隊、手短な従軍記録をお願いします。
 私はAifred Becker、1924年生まれでケルン出身です。第326歩兵師団に所属していました。ノルマンディーとアルデンヌでの反撃に参加しました。私は1944年の秋にGefreiterに昇進し、1945年の1月19日に捕虜になりました。

あなたは戦闘中にDrillichanzug(HBTの制服)を着ましたか?
 いいえ、それはバカげています。私たちのDrillichanzugは白でした。もし着ていたら敵は私たちをウサギのように撃ち倒すでしょう。

あなたの制服と衣類について説明してください。
 Feldgrauのウールの上着とズボンです。私たちは靴を持っていて、映画にあるようなブーツではありませんでした。それと他のものと同じ色のコートですね。全てのウールはとても粗く、高品質ではありませんでした。私たちが下に着ていた物は長いニットシャツで、2種類ありました。1つは襟のついていないもので、カラーはボタンで上着の内側につけました。もう1つは襟付きでしたが、非常に質の悪いもので出来ていました。新品だとサンドペーパーのようでした。

どんな装備品を支給されましたか?
 フランスでのことはよく覚えていませんが、アルデンヌでは私は騎兵銃[Kar98kのことであると思われる]とスモークグレネードを携行していました。スモークグレネードは攻撃のときや逃げるときに身を隠すのに使いました。その後、分隊長になったときは短機関銃を携行していました。

どうしていくつかのErkennungsmarke(認識票)の血液型の欄が無いのですか?
 私たちは脚か肩のどちらかを選んで入れ墨をさせられました。私の脚は敏感だったので、肩にしました、見ますか?(シャツを捲り上げて、彼の左の肩甲骨のあたりの赤紫の“A”を見せる) 私は認識票をひもで首に下げていました。

野戦にSoldbuchを持って行きましたか?どのように携行していましたか?
 私たちは、隔離された場所や歩哨で外に居るとき以外は、野戦服のポケットに入れて携行していました。そのときは私たちの士官にそれを渡しました。私がノルマンディーで負傷したときは自分のSoldbuchを持っていなかったので、病院で新しいものを与えられました。

どんな歌を歌いましたか?
 私は歌うのが大好きです!私たちはErika, Lili Marlene, Als Wir Nach Frankreich Zogen, Muß Ich Den, Rosemarie、そのほかたくさん歌いました。よく歌いましたよ。

分隊か機銃要員、歩哨、もしくは訓練部隊の組織について教えてください。
 訓練のとき、私たちは12人かそれ以上のKorporalschaftenに配置されました。これはまた、私たちの兵舎の部屋の多くの人もです。部屋の1人はStubenaltesteで、彼は部屋がきちんと整理されていて、私たちが全ての知らせを通達されていることを確認します。これは本当の階級ではありませんでした。私たちのStubenaltesteは子供だと私は知っていました、彼は若かったのですが、ヒトラーユーゲントでジュニアリーダーだったので、本当に責任を果たせる、軍人向きだったんです。私はフランスで師団の補充部隊にいて、どのように組織化されたか覚えていません。秋に私が第752連隊に転属になったとき、私は分隊の副官であるStellvertretender Gruppenführerになりました。私たちの分隊は最初は9人いました。前線で数日たつと、その人数は少なくなりました。

Maketenderwäre:どんなものを買うことが出来て、どこで手に入れましたか?品物はどのくらいの値段でしたか?
 主に酒類やタバコでしたね。本や筆記用具、石鹸のようなものも手に入れることができました。私はKlorodontと呼ばれた歯磨き粉のことをまだ覚えています。私たちはそれをZahlmeister(主計課)が担当しているKantine[酒保]で手に入れました。値段は覚えていません。

Fußlappenか靴下、どちらを身に着けましたか?
 冬には両方身に着けました。夏には靴下が擦り切れるまで使って、それからFußlappenを使いました。

リュック、背嚢、Sturmgepäck(Aフレーム)、どれを持っていましたか?
 背嚢です。私は他の人がリュックを持っているのを見たことがあります。Aフレームは見たことがありません。
基礎訓練や教官、日々の規則、兵舎などについて説明してください。
それは非常に疲れるものでした、戦闘とほとんど同じくらい疲れましたね。教官はたいてい古参の人で、彼らは本当に色々なことを教えてくれました。私たちは日が出るより早く起きて、1日中走り回って、教室で座学を受け、夜遅くに寝ました。私がフランスに行ったとき、私はもっと訓練されました:そこで私たちはどのようにしてレジスタンスを見つけるかやどのようにしてJaboから身を隠すかを習いました。私が秋にハンガリーに行ったときには、さらに多くのことを習いました。

野戦糧食について説明してください。
 私たちはパンとMukefuk(コーヒー)を受け取りました。時々ピクルスもありましたね。私たちはたくさんのスープやEintopf(シチュー)も食べました。私たちのコックがたいていの食事を作ってくれました、私たちはまったく調理をしませんでした;前線では冷たいものを食べました。時々、私たちは地元の住民から食べ物を買いました。

何か勲章を受章しましたか?それを得る為にあなたは何をしましたか、どのようにして受賞しましたか、またどのようにして身に着けましたか?
 私は黒の戦傷章をもらいました。それは黒、銀、そして金という順番です。黒はもっとも低い等級で、軽い負傷を負ったときにもらえます。もしあなたが両足を吹き飛ばされたり、何回も負傷したら金のものがもらえます。私は病院で受け取りました。フランスで私の隣のヤツがPanzerfaustを撃とうとして、それが吹き飛んだんです。私ともう1人が負傷して、射手は死にました。医者になにがあったかを話したとき、彼は「いいえ、あなたは勘違いをしています。敵の銃弾がPanzerfaustに命中して、吹き飛んだんです。あなたは名誉の負傷を負ったんですよ。」と言いましたよ、あはは。私が病院を出て行くとき、私は勲章を新しい野戦服のポケットに着けていました。

どんな野戦帽を支給されましたか?被るのに何か特別な方法はありましたか?
 私はつばのある、野球帽のようでフラップの付いたものを受け取りました。被るのに一定の方法がありましたが、それがどのようなものだったかは忘れてしまいました。私たちはフラップを下ろしませんでした、それは覚えています。

"Putz und Flickstunde"とはいつ、何なのですか?何をしましたか?
 それは清掃と装備品、衣服の手入れと兵舎の掃除のことです。

あなたは喫煙しましたか?パイプ、葉巻、タバコ、何が一般的でしたか?説明してください。ライターはどうだったんですか??
 私はパイプを吸いました。これは若い人にさえ当時では人気がありました。小さなパイプでした、私はどのように火を点けたのかを覚えていません、私はライターを持っていたに違いありません。前線ではパイプが適していました。タバコは燃えているのが見えるので、銃弾が顔に向かって飛んで来安かったのです。これは歯によくありません。

もっとも酷かった場所を教えてください。
 アルデンヌ攻勢の間のSaint Vith近郊ですね。アメリカ兵は私たちを虐殺していましたし、天気も非常に悪かったです。

あなたが兵役についていたときの1番の思い出を説明してください。
 私には陸軍に多くの良い戦友がいました、そして私たちは私たちが出来る全ての方法で仲間を助けました。今では見ないものです。それはKameradschaftと呼ばれました。私たちは良い時間もそうでない時間も共にしました。

あなたのスカーフや手袋、冬用ブーツなどの冬用の衣料を説明してください。
 私はコートとKopfschutzer(トーク)、引き金を引くものの付いたミトン、ハイネックのセーターを持っていました。私は、たぶん私の師団だと思いますが、兵士が雪上用のカモフラージュのある服を着ているのを見ました。片面が白でもう片方が茶色のものを。私たちはロシアのものをコピーしたんです。私は同じくロシアのものをコピーしたフェルトの付いたブーツを履いている兵士も見ました。

Biwak(ビバーク)について説明してください。
 これは野外でキャンプをするという意味です。訓練期間を除いて私はやりませんでしたね。前線では私たちは建物の中に留まるか、野外で穴を掘って毛布を巻くかでした。

現地の住民との関係はどうでしたか?
 フランス人とは問題なかったと思います。しかしながら、私は彼らと何かをするような関係はありませんでした。私はとてもシャイで不器用な若者でしたから。私がハンガリーにしばらく居たときは、ハンガリー人ととても仲良かったです。

戦争が終わったとき、どう思いましたか?
 終わって嬉しかったと同時に、家族のことが不安でした。長い間彼らから便りがなかったのです。彼らは無事で、バイエルンに住んでいました。

あなたの指揮下で今までに誰かシラミを持っていましたか?
 持ってなかったと思います。

あなたは何か鹵獲した装備や衣類を使いましたか?
 私たちはJaboをだます為にアメリカのマーカーパネル[詳細不明]を持っていましたが、それはもしかしたらドイツ製だったかもしれません。

あなたの敵であるロシア人、イギリス人、アメリカ人に対してどう思いましたか?
 私たちはロシア人を恐れていました。私たちは、イギリス人とアメリカ人はフェアな状況なら打ち倒せると思っていました、しかし彼らは我々よりも多くの物資を持っていたので、戦闘は全くフェアではありませんでした。もしあなたがアメリカの歩兵部隊を撃つと、彼らは爆弾や砲撃であなたを木っ端微塵にするでしょう。これには本当にイライラしました。アメリカ人は本当にめちゃくちゃでした。多くの良い食糧、良い衣服、良いブーツ。しかし、彼らはとても人道的でした。1945年1月のいくつかの酷い戦闘のあと、私たちはとても疲れ、戦闘をやめた者もいました。私たちはとても疲れ、空腹で、アミーたちが私たちを撃つことなど気にしませんでした。しかし、彼らは実際には私たちをかなり良く扱ってくれました。

あなたの下士官や士官、政府に対してどう思いましたか?
 私の上官の大半は問題なかったです。多くの下士官は兵隊だったときがあるので、彼らはたいてい優しかったです。士官もたいてい私たちの側でした。彼らは私のことをmeine Kinder(私の子供たち)と呼びました。彼らは私たちのことを気にかけてくれ、私たちは彼らのためにベストを尽くそうとしました。多くの士官は彼らの部下と共に死にました。

あなたはFeldpost(手紙)を受け取ったり送ったりしましたか?どのような手紙でしたか?
 いいえ、いくつかの理由で私はあまり手紙を受け取ることはありませんでした、特に私が病院を出てからは。私は病院でいくつかの手紙を受け取りました。私は両親と家族にいつも手紙を書きました。

列車移動について何か覚えていることはありますか?
 鉄道は昔も、そして今も依然としてヨーロッパでは重要なものです。私がフランスへ向かう為にドイツを離れたとき、移動するのに十分な食料を受け取りました。知ってのとおり、たいてい列車は爆撃の被害やその他の理由で待ったり進路を変更したりする必要がありました。なので大きな箱に入った食料をそれぞれ受け取ったんです。パン、ボトルに入ったフルーツジュース、チーズ、ソーセージ、だいたい1週間保つのに十分な量です。想像してください、多くの空腹な男たちがこの大きな箱を持っていて、しかしMarschkompanie Feldwebelが私たちにどれだけ食べてよいかを伝えているのを。しかし、いくつかの理由で、移動には数日しか要しませんでした。私たちは終点で本当のご馳走を食べました。

今までにUrlaub(休暇)をもらいましたか?説明してください。
 病院を出た後、休暇を取りました。それは1週間か2週間だったと思います。私は病院の倉庫にあったいくぶん古い制服を着る必要がありました、私の古いのはかなり焼けていました。私はKantineに行き、家族のためにいくつかお土産を買ってケルンへの列車に乗りました。私の友人の多くは戦争に行ってしまったので、家族と過ごしました。私の彼女は病院で働いていたので、彼女に1回会いに行きました。

Jaboに対する防御はどのようなものでしたか?道のわきにシェルターがあったのですか?
 言ったように、私たちは彼らをだますためのマーカーを持っていました。私たちはJaboが彼らの味方を爆撃しようとしていると思わせるために、マーカーを私たちのStellung(陣地)の前に置くように想定していました。私たちは1度もそれを使いませんでした。私たちにはフランスで訓練部隊にいたときに見せられた道わきのシェルターもありました。

あなたは野戦でコートを着ないとき、どのように携行していましたか?
 もし持っていたら、私はそれを着ていました。Kaserne(兵舎)では、私たちはそれをロッカーの中に掛けていました。

対戦車戦闘であなたはPanzerfaustや地雷、スモークグレネードなどを使ったのを覚えていますか?
 フランスでイギリス人は私たちの位置を通り抜けて行きました。私たちは外の溝の中にいました。私たちは1人が戦車の1台をPanzerfaustで撃つことを決める前に、少し通り過ぎるのを見ました。それが彼の手の中で吹き飛びました。私はそれをかろうじて見ることができました、というのも吹き飛んだ砂利が目に飛び込んできて、頭に怪我を負ったからです、しかし私は下水溝を通って中隊がいる小さな農家まで行きました。トミーたちは私に向けてずっと撃ってきました。別の部隊がそこにいて、撤退しながら私を後送してくれました。私はアルデンヌで再びPanzerfaustを持ちましたが、最初に起きたことのせいで2度と撃ちたくありませんでした。しかし、私は彼らが使うのを見ました。それらはあなたたちのバズーカよりも非常に効果的でした。

Eiserne Portionen(缶詰の糧食)を支給されましたか?
 はい、命令があったときだけ、食べるように想定されていました。中身はなんだったか覚えていません。

Kettenhund(憲兵)について何か覚えていることはありますか?
 あなたがMPに対するものと同じです。私は1度も彼らとトラブルになったことはありませんでした。

時計を持っていましたか?それはどんなものでしたか、腕時計ですかそれとも懐中時計でしたか?
 私は小さいときに祖父が買ってくれた腕時計を持っていました。それの後ろには碑文がありました。私はそれをイギリス人と追加の毛布のために交換してしまいました。

ドイツ陸軍の典型的な懲罰はなんでしたか?装備や銃を紛失すると何が起こりましたか?休暇を超過したり士官に敬礼しないと何が起きましたか?
 私は1回もトラブルを起こしませんでしたが、もしあなたがトラブルを起こしたときはArreststelle(拘留する場所)に置かれ、パンと水しか与えられないでしょう。

カメラを持っていましたか?
 いいえ

HIWIについて何か記憶はありますか?女性のHIWIを見ましたか?どのようにしてあなたはHIWIだと判断できたのですか、特別な制服をもっていたのですか?
 はは、HIWIですか。長い間その言葉を聴きませんでした。彼らはロシア人のボランティアで仕事を助けたりコックを手伝ったり、衣服の修繕をしたり、Waffenmeisterを手伝ったりしました。あなたは彼らがしゃべったときにHIWIだと分かります:かろうじてドイツ語を話せる者もいました。

ドイツ兵が出てくる映画で、映画会社が犯したもっとも大きな間違いは何ですか?
 ドイツ兵はいつも汚らわしくて醜いです。そして攻撃のとき、彼らは愚かにもまっすぐ大部隊で走ってきて、全員ウサギのように撃ち倒されています。そして彼らはいつもVormarschzeit、戦争初期の格好をしています。長く輝いたブーツに、派手な制服、そしてピカピカのStahlhelmです。私や私の戦友たちはそんな格好ではありませんでしたし、あんな自殺攻撃はしませんでした。

あなたはポケットナイフを持っていましたか?それはどのよなもので、どこで手に入れましたか?
 ははは、私の戦友たちは私のことをナイフ男という意味のMesserschmiedと呼びました。私の父は肉屋で、私はナイフについてたくさん学びました。私が家から持ってきたものの1つがナイフを研ぐための小さな石です。私は本当にナイフを研ぐことが出来たので、みんな私のところに彼らのナイフを研ぎに来ました。私は少しのガンオイルを使ってナイフを研ぎました。私はたくさんのポケットナイフも持っていました。どこで手に入れたかは覚えていませんが、少なくとも予備の2つのナイフを常に持っていました。

兵士たちはビールや焼酎[シュナップスのことだと思われる]を飲むのを許されていましたか?どこで手に入れましたか?
 私は本当に戦争が終わるまで焼酎を手に入れませんでした。時々、フランスで現地の住民からワインを手に入れました。

あなたはガマシェンを付けましたか?兵士がガマシェンを捨てて、靴下でズボンのすそを巻き上げているのを覚えていますか?
 はい、兵士たちがそうしていたのを覚えていますが、どこで、なぜそうしたのかは覚えていません。私はガマシェンを支給されてそれを付けていました。ガマシェンは土がブーツに入るのを防いでいました。

野戦での埋葬をしましたか?説明してください。
 実際に、私は、戦死者がどのように扱われるかにすっかり驚きました。私が軍に入る前に、私は映画で兵士が墓地の近くで火葬され、彼の戦友たちがIch hat eine Kameradenを歌い、牧師が祈るのを見ましたよ。そして彼らが見事にすぐに死ぬか、平和に病院で素敵なナースの腕の中で死にました。私は、私が訓練期間のときに溺死した兵士の素晴らしい葬式に行きました。しかし、前線では私はそのようなものは決して見ませんでした。私たちがしたことは、穴を掘って、彼を埋葬することでした、もし時間があってもです。Saint Vithではただ彼らを積み重ねるか、雪の中に放置しました。地面は凍っていて、墓穴を掘れなかったんです。もし誰かが撃たれて、顔に命中して死んだら、彼の顔がねじれて固まったり、平らになったりして彼が誰だったのかさえ分かりませんでした。酷かったです。良い息子や良き夫が雪の中に縁石の上のゴミ袋のように放置されているのは。私は、1人の女性が前線にいる彼女の兵士のことを考えているのを示し、彼女が「私は前線にいる私のFritzl[おそらく夫か息子の名前だと思われる]のためにこれをやるの。」のようなことを考えているような感傷的な広告を覚えています。彼女が知らないのはFritzlが雪の中で死んでいることでした。私たちは戦傷者について家に手紙を送るのを禁止されていました。

敵の武器で何を1番恐れましたか?
 全部が怖かったです。みんな私を傷つけることができましたから。砲撃がとても嫌でしたが、私はSt. Vithの周りで多くの人が小銃や機関銃で殺されるのを見ました。私たちは開けた地形で戦っていて、あなたが考えるような木々の中ではありません。隠れる場所は何も無くて、私たちはウサギのように撃ち倒されました。Granatwerfer(迫撃砲)も嫌でした。飛んでくるのが聞こえないし、砲撃のように地面に埋まりませんからね。

戦後、故郷の人たちはあなたをどのように扱いましたか?
 みんな彼ら自身の問題で忙しくて、もう1人戻ってきた兵士のことなど気にしませんでした。しかし、連合軍がナチであったり、ナチを支援する理由のあった全ての教師、政治家、警官を一掃しました。戦時中に何かしらの権限を持っていた人はおそらくほとんど全員党員であったので、多くの良い管理者がその職を追われました。連合軍が任命した何人かは、あぁ、彼らは酷かったです。彼らの中には兵士を含めたReichのものを憎んでいる者もいました。彼らのせいで生活が辛くなりました。

あなたの、Eßbesteck(調理器具)やラードケースなどの、食事のための装備品を説明してください。
 私は折りたためるスプーンをポケットに入れていました。私が覚えているのはそれくらいです。


原文:米国のWebサイト Der Erste Zug
http://www.dererstezug.com/VetBecker.htm