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Posted by ミリタリーブログ at

2012年10月30日

観閲の手順

 今回のコンバット(10月27-28日)で、部隊編成完結式のために観閲式を行ったのですが、自分の方でも手順や号令が分からなくなってしまったので、今回このようにまとめさせて頂くことにしました。

 例のごとく、参考にしたのはDer Erste Zugです。

 簡略化のために番号を付けて箇条書きにして説明します。

1.下士官・兵は人数にも依るが、横隊で整列する。小銃はGewehr abの状態。

2.Richt euchの号令で列を正す。基準は右端の人。

3.Augen gerade - ausの号令で正面を向く。それまでは右側を見続けること。

4.Das Gewehr - überの号令で、担え銃の状態になる。担え銃のポイントは以下のとおり。
 4.1.Gewehr abの右手の位置からそのまま銃を体の正面、野戦服のボタンのラインへ持ち上げて、左手は右手のすぐ下の部分を握る。右手はアゴの下あたりの位置。
 4.2.右手を動かし、機関部上部を握る。
 4.3.右手で左肩に銃を乗せると同時に左手をバットプレートへ移す。
 4.4.右手を気をつけの姿勢に戻す。銃のトリガーガードは脇の下のあたり、銃はなるべく垂直になるようにする。

5.Achtung! Präsentiert - das --- Gewehrの号令で捧げ銃の状態になる。捧げ銃のポイントは以下のとおり。
 5.1.左手で銃を右へ90°回しながらやや下げ、右手はグリップのところへ。
 5.2.右手でさらに90°回し、同時に左手はリアサイトの下部へ。
 5.3.右手の指を伸ばし、銃は垂直、体と並行に。左胸のボタンのラインに合わせ、フロントバンドは目の高さに。

6.Zur Meldung --- Augen - rechts の号令で、右端も含めて全員が右を向く。

7.指揮官が歩いて来たら、頭を動かして彼を目線で追う。

8.自分の目の前を通過し、更に彼が5歩歩いたら、目で追うのを止めて正面を向く。


 普段のCOMBATでは更に担え銃、立て銃をし、指揮官の訓示、指揮官の退場、解散まで行うのですが、このあとどうするのが正式なのかは不明なため、ここまでとしておきます。

 百聞は一見にしかずと言いますが、この文章だけでは分かりにくいので、今度イラストなどを交えて追記できればと思います。  

Posted by ハルトマン at 14:45Comments(0)ドイツ軍の号令 簡略版

2012年10月03日

ドイツ軍兵士の小銃の持ち方

 
 本文に入る前に、まずこの記事を翻訳したものとはいえ、転載することを快く許可してくれたアメリカのリエナクトグループであるDer Erste Zug http://www.dererstezug.com/index.htm の方々、そして原文を書くために努力した方々や、翻訳に当たって協力してくれた友人たちに心から感謝したいと思います。
 これらの協力がなければ、今私達がこの資料を共有することは出来なかったと思います。

 I would like to thank Der Erste Zug for permitting to quote this article.
Without their efforts and generosity, we would not have been able to share these valuable research.

 ドイツ軍兵士の小銃の持ち方

著者: Oberfeldwebel Heinrich Lützow、 編集: Unteroffizier Jan Sabol
________________________________________

 ドイツの小銃兵(Schütze シュッツェ)は他の小銃兵や機関銃手と共に分隊(8~15人)の最小の役割の1つである。小銃兵が彼の小銃と共に一人で行動するのは稀であり、戦局を変えることを期待されてはいなかった。彼は制圧射撃をすることは出来ない。ドイツの分隊のドクトリン(原則)は機関銃を配備し、従事することがまず第一であり、よって分隊長は常にそれに集中した。すなわち小銃兵の配置はその次であり、機関銃の補助だけを目的としていたのである。ドイツ軍はボルトアクションライフルを戦争末期になるまで置き換える努力をしなかった。というのも、MG34とMG42が非常に優秀であり、小単位での戦術において重要であったため、小銃はもっとも重要でないと考えられていたからである。戦争末期になってからようやく他の小銃が姿を現したが、それでもあなたは1945年でもMP44よりも多くのKar98kを見ることになるだろう[英語の原文では「MP44の20倍のKar98kを~」]。
 もしあなたが当時の場面を見たとき、あなたは小銃がほとんど常に右手だけで持たれていて、保持している腕が伸ばされている(Trail carryと、現代の狩猟において知られているもの)のに気が付くだろう。これは小銃兵を走るのを容易にさせ、左腕を振ることを可能にさせている。これは何時間もずっと小銃を持つ兵士にとっても、楽なのである(現代のライフルの上に持ち手(M16などのキャリングハンドル)を付け加えたのも、まさにこの理由によるものである)。



 1950年代まで、すべてのドイツ人は子供の時から右利きになるように教えられ(左利きは不自然に思われた)、実際にすべてのドイツの小銃や戦闘行動、パレードの訓練から戦闘動作まで、ドイツ軍の兵士は右手(利き手)で小銃を持っていることを忘れないでほしい。



 あなたは、たとえ銃撃の中でも右手に小銃を持ち、腕を伸ばして銃の支点を保持するドイツ兵を見ることになるだろう(上の画像を参照のこと)。これによって自由な動きと素早さを得ることができる。先に述べたHinlegenの、右手を自由にするために左手に持ち代えた後の絵で誤解をしないでほしい。多くの人がその絵を見て、小銃を左手に持つものだと勘違いをするが、そうではない(それは未熟なために銃を胴の周りで振るからであり、意味をなさない)。では、基礎訓練のドイツ兵の写真を見て勉強し、若者たち(今まで火器を持ったことのない農家の者や街の男の子)が正に何を教えられたか、そして教科書のすべての記述に小銃をどのように保持するかを見ることになるだろう、すなわち右手に保持するということを!

 銃火にさらされた分隊がまず第一に取る反応は、伏せることである。これは、まず当たる見込みのない目標に向けて小銃兵に狂気じみた射撃をさせるためではない。この時、分隊の全員は分隊長が機関銃(彼はその近くにいる)に従事するまで待機する。もし、差し迫った脅威がある場合、分隊は遠慮なく射撃を始めるのだが、分隊における訓練では交戦状態になる前にFeuer Frei(フォイアー フライ:自由に撃て)の命令を待つ。
 ドイツ人はこれに厳格で、彼らは個々の小銃兵が命令なく交戦しようとはしなかった。ドイツ人は射撃開始のことをFeuereröffnung(フォイアー・エァ・エフヌング)と呼び、彼らはそれがいつ起きるのかにとても熱心だった。これについて書かれている多くのドイツの教範がある。彼らは臆病な若い兵士に射撃の最中に配置を離れてほしくなかった。行動が始まると、Feuer Freiの命令がすぐさま下されたが、一般的に彼らは命令あるまで射撃を控えるように教えられた。

 余談だが、あなたは機関銃をスリングと共に前を向けて立ったまま銃弾をばらまく準備の出来た持ち方があることに気が付くだろう。これは、前にも言ったが、機関銃の高い連射速度こそ、ドイツ人のねらっていることだからである。これは使える武器であって、小銃とは違う。同じことが前を向けてあるMP40にも言える。こう言うのは残念だが、貧弱なKar98kは遭遇戦の場合、劣った立場になるのである。

 ボルトアクションライフルは狙いを付けない射撃の為には設計されていない。ドイツ人はそれを伏せた状態からの良い狙いで撃つことを望んだ。彼らはマークスマンシップ(射手としての能力、技能)に大きな強調とプライドを置いた。そしてこれは彼らの歴史的なスポーツである狩猟[本文ではJägerとなっているが、狩猟はドイツ語ではJagdである]でも明らかである。ドイツ人は接近戦において、Hüftschussと呼ばれるスナップショットをした。これは腰から離して、銃剣を突き刺すようにして小銃を発砲することを意味している(ドイツの小銃の位置は、かつてのマスケット銃の、銃剣での殺傷が主であった時代を依然としてほのめかしている)。前進するための適切な小銃の位置を映画「スターリングラード(93年のドイツのもの)」の脱走したドイツ兵が谷間で凍りかけの難民に遭遇したシーンで完璧に見ることができる。ドイツ兵は神経質になり、本能的に彼らの小銃を銃剣を前にして腰に構えている。どのような場合でも、この態勢は開けた野原の為ではなく、ほんの一瞬で敵と遭遇する接近戦の為である。

 小銃の標準的な持ち方は、立っている場合では現代のSide CarryかElbow Carryに似ていて、小銃が右ひじと体の間、わきの下に隠れていて、左手は銃床の前の方にあり、銃は前を向いている(下の画像1を参照)。これによって素早くHüftschuss(スナップショット)に移行するか、銃剣を突き出すことができる。そして、右手が自由になり、Hinlegenになることができる。また、ドイツ人がパレードの訓練の時のように小銃を彼らの右足に並んで立てるのも見るかもしれない。また、よく見ると戦闘の合間にほこりっぽい平野に立っている間でさえ、多くの兵士が本能的に銃床の前のあたりを指をまっすぐにし、まるでパレードの時のように右手で握っている。これは彼らが訓練で叩き込まれ、無意識にしているからである(画像2を参照)。



 さてここで、私はよくリエナクター達が、戦争後期では訓練が短縮され、兵士たちが教本のように行動しないことを嘆いている、という事をたびたび耳にする。これは事実ではない。たとえ最も短縮された後期の訓練でも、5年前(1940年)と同じ教官か、彼らに教えられた者たちによって実施された。ドイツ軍は時間が無かったために突然、訓練を変えたわけではない。単に不必要なものである、教練の行進(Exerziermarsch)や行進の時のLinks umなどを除外し、訓練時間の不足のためにより簡単な訓練をしたのである。 私は戦争後期の兵卒が教本のやり方をしている写真を数多く見たことがある。既存の方法に従うというドイツの要求を過小評価してはならない。ドイツ人が戦争の終わりまでにどれくらい訓練を緩くしたかに現代の振る舞いを用いらないこと。私は、しばしば厳密な教練と詳細な戦術は戦争後期のリエナクトに必要でないと主張するリエナクター達のことはただ怠惰であると考え、わざわざ詳細に注意を向けさせることはできない。 あなたが長い間この趣味をするのなら、これらの詳細はあなたにとって重要であり、あなたは、それらを知って、練習するべきである。

 同様に、ベテランの方々の動作の詳細に注意してください、特に教練について。以下の有名な方たちは基礎訓練を受けてから長い年月が経ち、年々それはおぼろげなものになっています。私は、捧げ銃の時は小銃を鼻の正面に持ってくると主張するドイツのベテランを知っています。しかし、彼は捧げ銃の時の"Das Gewehr — über!„の命令の最初のテンポの時にミスを犯していますが、60年経った今、誰が彼を責められるでしょうか?彼は1944年に(そう、戦争末期に)担え銃の3テンポを繰り返し訓練を受け、その訓練の一部を思い出したのだ。彼は最初のテンポで小銃を彼の鼻先の中央に保持するようにと、何百回もFeldwebelの怒鳴り声とともにやり、それが彼の記憶の1つにあるのだろう。私はカナダの執銃法を20年前に習ったが、それ以来やらず、20年経ってもうその多くの詳細を忘れてしまっている。だから、ベテランの方々も同様に時間という霧に覆われているに違いないということを覚えておいてほしい。ベテランの方々は素晴らしい、魅力的な情報源であるが、私たちはドイツで1940年代にドイツ軍によって書かれた当時のマニュアルを私たちが演じようとしている本当の兵士のために持っている。私たちはこのほとんど手の付けられてない知識の宝庫を無視してはならない!当然の尊敬とともに、私は1945年の13歳のときに6週間、対空砲に配置されていたヒトラー・ユーゲントよりは、1942年にドイツ陸軍の士官とHeinz Decklerによって書かれたマニュアルを頼りたいと思う。もしあなたが1945年の戦いのリエナクトを考えているのなら、これらの詳細な知識は求められない、そこで、この趣味であなたの関与は良くても何気ないものになるであろう。これはかまわないが、あなたはおそらく国民突撃隊のリエナクトをするのが関の山となるでしょう。

原文:米国Webサイト der Erste Zugより
http://www.dererstezug.com/HandletheRifle.htm

  

Posted by ハルトマン at 02:15Comments(0)翻訳文ー命令・戦術などー