2012年08月02日

Alfred Becker氏へのインタビュー

 
 本文に入る前に、まずこの記事を翻訳したものとはいえ、転載することを快く許可してくれたアメリカのリエナクトグループであるDer Erste Zug http://www.dererstezug.com/index.htm の方々、そして原文を書くために努力した方々や、翻訳に当たって協力してくれた友人たちに心から感謝したいと思います。
 これらの協力がなければ、今私達がこの資料を共有することは出来なかったと思います。

 I would like to thank Der Erste Zug for permitting to quote this article.
Without their efforts and generosity, we would not have been able to share these valuable research.




Alfred Becker
________________________________________
Eric Tobeyによるインタビュー

 このインタビューはDie Neue Feldpostから引用されたもので、出版者の許可を得ています。私たちは出版者の寛大さに感謝するとともに、この記事に貢献した全ての人にも感謝したいと思います。彼らの努力によって、私たちはこの貴重な研究をあなた方と共有することが出来るのです。
この記事の大半は以前、1989年の秋にDer Meldewegと呼ばれる公報に掲載された。これは、おそらく6回のBecker氏との会話と、私たちの「ドイツのベテランへの101の質問」の発展の産物であるものなどを代表とする質問の結果である。私たちは容量の問題からいくつかの質問を省略する必要があった、おそらく私たちは、それらを以下の質問の中で述べることになるであろう。Becker氏は多くの詳細な事柄までは完全に思い出せなかったが、彼は他の誰よりも、私たちの研究の努力が実際にあるということを信頼している。彼がもっともよく使った言い回しは「あなた方はそれについて他の人々にも尋ねる必要があります・・・他にもあなた方にもっと伝えられる人がいるでしょう。あなた方は、あなた方が本当にそれがあったかなかったかの考えを得られる前に、多くの人と話す必要があります。」であると思われる。Al Beckerは現在、フロリダで隠居生活をしている。

氏名、部隊、手短な従軍記録をお願いします。
 私はAifred Becker、1924年生まれでケルン出身です。第326歩兵師団に所属していました。ノルマンディーとアルデンヌでの反撃に参加しました。私は1944年の秋にGefreiterに昇進し、1945年の1月19日に捕虜になりました。

あなたは戦闘中にDrillichanzug(HBTの制服)を着ましたか?
 いいえ、それはバカげています。私たちのDrillichanzugは白でした。もし着ていたら敵は私たちをウサギのように撃ち倒すでしょう。

あなたの制服と衣類について説明してください。
 Feldgrauのウールの上着とズボンです。私たちは靴を持っていて、映画にあるようなブーツではありませんでした。それと他のものと同じ色のコートですね。全てのウールはとても粗く、高品質ではありませんでした。私たちが下に着ていた物は長いニットシャツで、2種類ありました。1つは襟のついていないもので、カラーはボタンで上着の内側につけました。もう1つは襟付きでしたが、非常に質の悪いもので出来ていました。新品だとサンドペーパーのようでした。

どんな装備品を支給されましたか?
 フランスでのことはよく覚えていませんが、アルデンヌでは私は騎兵銃[Kar98kのことであると思われる]とスモークグレネードを携行していました。スモークグレネードは攻撃のときや逃げるときに身を隠すのに使いました。その後、分隊長になったときは短機関銃を携行していました。

どうしていくつかのErkennungsmarke(認識票)の血液型の欄が無いのですか?
 私たちは脚か肩のどちらかを選んで入れ墨をさせられました。私の脚は敏感だったので、肩にしました、見ますか?(シャツを捲り上げて、彼の左の肩甲骨のあたりの赤紫の“A”を見せる) 私は認識票をひもで首に下げていました。

野戦にSoldbuchを持って行きましたか?どのように携行していましたか?
 私たちは、隔離された場所や歩哨で外に居るとき以外は、野戦服のポケットに入れて携行していました。そのときは私たちの士官にそれを渡しました。私がノルマンディーで負傷したときは自分のSoldbuchを持っていなかったので、病院で新しいものを与えられました。

どんな歌を歌いましたか?
 私は歌うのが大好きです!私たちはErika, Lili Marlene, Als Wir Nach Frankreich Zogen, Muß Ich Den, Rosemarie、そのほかたくさん歌いました。よく歌いましたよ。

分隊か機銃要員、歩哨、もしくは訓練部隊の組織について教えてください。
 訓練のとき、私たちは12人かそれ以上のKorporalschaftenに配置されました。これはまた、私たちの兵舎の部屋の多くの人もです。部屋の1人はStubenaltesteで、彼は部屋がきちんと整理されていて、私たちが全ての知らせを通達されていることを確認します。これは本当の階級ではありませんでした。私たちのStubenaltesteは子供だと私は知っていました、彼は若かったのですが、ヒトラーユーゲントでジュニアリーダーだったので、本当に責任を果たせる、軍人向きだったんです。私はフランスで師団の補充部隊にいて、どのように組織化されたか覚えていません。秋に私が第752連隊に転属になったとき、私は分隊の副官であるStellvertretender Gruppenführerになりました。私たちの分隊は最初は9人いました。前線で数日たつと、その人数は少なくなりました。

Maketenderwäre:どんなものを買うことが出来て、どこで手に入れましたか?品物はどのくらいの値段でしたか?
 主に酒類やタバコでしたね。本や筆記用具、石鹸のようなものも手に入れることができました。私はKlorodontと呼ばれた歯磨き粉のことをまだ覚えています。私たちはそれをZahlmeister(主計課)が担当しているKantine[酒保]で手に入れました。値段は覚えていません。

Fußlappenか靴下、どちらを身に着けましたか?
 冬には両方身に着けました。夏には靴下が擦り切れるまで使って、それからFußlappenを使いました。

リュック、背嚢、Sturmgepäck(Aフレーム)、どれを持っていましたか?
 背嚢です。私は他の人がリュックを持っているのを見たことがあります。Aフレームは見たことがありません。
基礎訓練や教官、日々の規則、兵舎などについて説明してください。
それは非常に疲れるものでした、戦闘とほとんど同じくらい疲れましたね。教官はたいてい古参の人で、彼らは本当に色々なことを教えてくれました。私たちは日が出るより早く起きて、1日中走り回って、教室で座学を受け、夜遅くに寝ました。私がフランスに行ったとき、私はもっと訓練されました:そこで私たちはどのようにしてレジスタンスを見つけるかやどのようにしてJaboから身を隠すかを習いました。私が秋にハンガリーに行ったときには、さらに多くのことを習いました。

野戦糧食について説明してください。
 私たちはパンとMukefuk(コーヒー)を受け取りました。時々ピクルスもありましたね。私たちはたくさんのスープやEintopf(シチュー)も食べました。私たちのコックがたいていの食事を作ってくれました、私たちはまったく調理をしませんでした;前線では冷たいものを食べました。時々、私たちは地元の住民から食べ物を買いました。

何か勲章を受章しましたか?それを得る為にあなたは何をしましたか、どのようにして受賞しましたか、またどのようにして身に着けましたか?
 私は黒の戦傷章をもらいました。それは黒、銀、そして金という順番です。黒はもっとも低い等級で、軽い負傷を負ったときにもらえます。もしあなたが両足を吹き飛ばされたり、何回も負傷したら金のものがもらえます。私は病院で受け取りました。フランスで私の隣のヤツがPanzerfaustを撃とうとして、それが吹き飛んだんです。私ともう1人が負傷して、射手は死にました。医者になにがあったかを話したとき、彼は「いいえ、あなたは勘違いをしています。敵の銃弾がPanzerfaustに命中して、吹き飛んだんです。あなたは名誉の負傷を負ったんですよ。」と言いましたよ、あはは。私が病院を出て行くとき、私は勲章を新しい野戦服のポケットに着けていました。

どんな野戦帽を支給されましたか?被るのに何か特別な方法はありましたか?
 私はつばのある、野球帽のようでフラップの付いたものを受け取りました。被るのに一定の方法がありましたが、それがどのようなものだったかは忘れてしまいました。私たちはフラップを下ろしませんでした、それは覚えています。

"Putz und Flickstunde"とはいつ、何なのですか?何をしましたか?
 それは清掃と装備品、衣服の手入れと兵舎の掃除のことです。

あなたは喫煙しましたか?パイプ、葉巻、タバコ、何が一般的でしたか?説明してください。ライターはどうだったんですか??
 私はパイプを吸いました。これは若い人にさえ当時では人気がありました。小さなパイプでした、私はどのように火を点けたのかを覚えていません、私はライターを持っていたに違いありません。前線ではパイプが適していました。タバコは燃えているのが見えるので、銃弾が顔に向かって飛んで来安かったのです。これは歯によくありません。

もっとも酷かった場所を教えてください。
 アルデンヌ攻勢の間のSaint Vith近郊ですね。アメリカ兵は私たちを虐殺していましたし、天気も非常に悪かったです。

あなたが兵役についていたときの1番の思い出を説明してください。
 私には陸軍に多くの良い戦友がいました、そして私たちは私たちが出来る全ての方法で仲間を助けました。今では見ないものです。それはKameradschaftと呼ばれました。私たちは良い時間もそうでない時間も共にしました。

あなたのスカーフや手袋、冬用ブーツなどの冬用の衣料を説明してください。
 私はコートとKopfschutzer(トーク)、引き金を引くものの付いたミトン、ハイネックのセーターを持っていました。私は、たぶん私の師団だと思いますが、兵士が雪上用のカモフラージュのある服を着ているのを見ました。片面が白でもう片方が茶色のものを。私たちはロシアのものをコピーしたんです。私は同じくロシアのものをコピーしたフェルトの付いたブーツを履いている兵士も見ました。

Biwak(ビバーク)について説明してください。
 これは野外でキャンプをするという意味です。訓練期間を除いて私はやりませんでしたね。前線では私たちは建物の中に留まるか、野外で穴を掘って毛布を巻くかでした。

現地の住民との関係はどうでしたか?
 フランス人とは問題なかったと思います。しかしながら、私は彼らと何かをするような関係はありませんでした。私はとてもシャイで不器用な若者でしたから。私がハンガリーにしばらく居たときは、ハンガリー人ととても仲良かったです。

戦争が終わったとき、どう思いましたか?
 終わって嬉しかったと同時に、家族のことが不安でした。長い間彼らから便りがなかったのです。彼らは無事で、バイエルンに住んでいました。

あなたの指揮下で今までに誰かシラミを持っていましたか?
 持ってなかったと思います。

あなたは何か鹵獲した装備や衣類を使いましたか?
 私たちはJaboをだます為にアメリカのマーカーパネル[詳細不明]を持っていましたが、それはもしかしたらドイツ製だったかもしれません。

あなたの敵であるロシア人、イギリス人、アメリカ人に対してどう思いましたか?
 私たちはロシア人を恐れていました。私たちは、イギリス人とアメリカ人はフェアな状況なら打ち倒せると思っていました、しかし彼らは我々よりも多くの物資を持っていたので、戦闘は全くフェアではありませんでした。もしあなたがアメリカの歩兵部隊を撃つと、彼らは爆弾や砲撃であなたを木っ端微塵にするでしょう。これには本当にイライラしました。アメリカ人は本当にめちゃくちゃでした。多くの良い食糧、良い衣服、良いブーツ。しかし、彼らはとても人道的でした。1945年1月のいくつかの酷い戦闘のあと、私たちはとても疲れ、戦闘をやめた者もいました。私たちはとても疲れ、空腹で、アミーたちが私たちを撃つことなど気にしませんでした。しかし、彼らは実際には私たちをかなり良く扱ってくれました。

あなたの下士官や士官、政府に対してどう思いましたか?
 私の上官の大半は問題なかったです。多くの下士官は兵隊だったときがあるので、彼らはたいてい優しかったです。士官もたいてい私たちの側でした。彼らは私のことをmeine Kinder(私の子供たち)と呼びました。彼らは私たちのことを気にかけてくれ、私たちは彼らのためにベストを尽くそうとしました。多くの士官は彼らの部下と共に死にました。

あなたはFeldpost(手紙)を受け取ったり送ったりしましたか?どのような手紙でしたか?
 いいえ、いくつかの理由で私はあまり手紙を受け取ることはありませんでした、特に私が病院を出てからは。私は病院でいくつかの手紙を受け取りました。私は両親と家族にいつも手紙を書きました。

列車移動について何か覚えていることはありますか?
 鉄道は昔も、そして今も依然としてヨーロッパでは重要なものです。私がフランスへ向かう為にドイツを離れたとき、移動するのに十分な食料を受け取りました。知ってのとおり、たいてい列車は爆撃の被害やその他の理由で待ったり進路を変更したりする必要がありました。なので大きな箱に入った食料をそれぞれ受け取ったんです。パン、ボトルに入ったフルーツジュース、チーズ、ソーセージ、だいたい1週間保つのに十分な量です。想像してください、多くの空腹な男たちがこの大きな箱を持っていて、しかしMarschkompanie Feldwebelが私たちにどれだけ食べてよいかを伝えているのを。しかし、いくつかの理由で、移動には数日しか要しませんでした。私たちは終点で本当のご馳走を食べました。

今までにUrlaub(休暇)をもらいましたか?説明してください。
 病院を出た後、休暇を取りました。それは1週間か2週間だったと思います。私は病院の倉庫にあったいくぶん古い制服を着る必要がありました、私の古いのはかなり焼けていました。私はKantineに行き、家族のためにいくつかお土産を買ってケルンへの列車に乗りました。私の友人の多くは戦争に行ってしまったので、家族と過ごしました。私の彼女は病院で働いていたので、彼女に1回会いに行きました。

Jaboに対する防御はどのようなものでしたか?道のわきにシェルターがあったのですか?
 言ったように、私たちは彼らをだますためのマーカーを持っていました。私たちはJaboが彼らの味方を爆撃しようとしていると思わせるために、マーカーを私たちのStellung(陣地)の前に置くように想定していました。私たちは1度もそれを使いませんでした。私たちにはフランスで訓練部隊にいたときに見せられた道わきのシェルターもありました。

あなたは野戦でコートを着ないとき、どのように携行していましたか?
 もし持っていたら、私はそれを着ていました。Kaserne(兵舎)では、私たちはそれをロッカーの中に掛けていました。

対戦車戦闘であなたはPanzerfaustや地雷、スモークグレネードなどを使ったのを覚えていますか?
 フランスでイギリス人は私たちの位置を通り抜けて行きました。私たちは外の溝の中にいました。私たちは1人が戦車の1台をPanzerfaustで撃つことを決める前に、少し通り過ぎるのを見ました。それが彼の手の中で吹き飛びました。私はそれをかろうじて見ることができました、というのも吹き飛んだ砂利が目に飛び込んできて、頭に怪我を負ったからです、しかし私は下水溝を通って中隊がいる小さな農家まで行きました。トミーたちは私に向けてずっと撃ってきました。別の部隊がそこにいて、撤退しながら私を後送してくれました。私はアルデンヌで再びPanzerfaustを持ちましたが、最初に起きたことのせいで2度と撃ちたくありませんでした。しかし、私は彼らが使うのを見ました。それらはあなたたちのバズーカよりも非常に効果的でした。

Eiserne Portionen(缶詰の糧食)を支給されましたか?
 はい、命令があったときだけ、食べるように想定されていました。中身はなんだったか覚えていません。

Kettenhund(憲兵)について何か覚えていることはありますか?
 あなたがMPに対するものと同じです。私は1度も彼らとトラブルになったことはありませんでした。

時計を持っていましたか?それはどんなものでしたか、腕時計ですかそれとも懐中時計でしたか?
 私は小さいときに祖父が買ってくれた腕時計を持っていました。それの後ろには碑文がありました。私はそれをイギリス人と追加の毛布のために交換してしまいました。

ドイツ陸軍の典型的な懲罰はなんでしたか?装備や銃を紛失すると何が起こりましたか?休暇を超過したり士官に敬礼しないと何が起きましたか?
 私は1回もトラブルを起こしませんでしたが、もしあなたがトラブルを起こしたときはArreststelle(拘留する場所)に置かれ、パンと水しか与えられないでしょう。

カメラを持っていましたか?
 いいえ

HIWIについて何か記憶はありますか?女性のHIWIを見ましたか?どのようにしてあなたはHIWIだと判断できたのですか、特別な制服をもっていたのですか?
 はは、HIWIですか。長い間その言葉を聴きませんでした。彼らはロシア人のボランティアで仕事を助けたりコックを手伝ったり、衣服の修繕をしたり、Waffenmeisterを手伝ったりしました。あなたは彼らがしゃべったときにHIWIだと分かります:かろうじてドイツ語を話せる者もいました。

ドイツ兵が出てくる映画で、映画会社が犯したもっとも大きな間違いは何ですか?
 ドイツ兵はいつも汚らわしくて醜いです。そして攻撃のとき、彼らは愚かにもまっすぐ大部隊で走ってきて、全員ウサギのように撃ち倒されています。そして彼らはいつもVormarschzeit、戦争初期の格好をしています。長く輝いたブーツに、派手な制服、そしてピカピカのStahlhelmです。私や私の戦友たちはそんな格好ではありませんでしたし、あんな自殺攻撃はしませんでした。

あなたはポケットナイフを持っていましたか?それはどのよなもので、どこで手に入れましたか?
 ははは、私の戦友たちは私のことをナイフ男という意味のMesserschmiedと呼びました。私の父は肉屋で、私はナイフについてたくさん学びました。私が家から持ってきたものの1つがナイフを研ぐための小さな石です。私は本当にナイフを研ぐことが出来たので、みんな私のところに彼らのナイフを研ぎに来ました。私は少しのガンオイルを使ってナイフを研ぎました。私はたくさんのポケットナイフも持っていました。どこで手に入れたかは覚えていませんが、少なくとも予備の2つのナイフを常に持っていました。

兵士たちはビールや焼酎[シュナップスのことだと思われる]を飲むのを許されていましたか?どこで手に入れましたか?
 私は本当に戦争が終わるまで焼酎を手に入れませんでした。時々、フランスで現地の住民からワインを手に入れました。

あなたはガマシェンを付けましたか?兵士がガマシェンを捨てて、靴下でズボンのすそを巻き上げているのを覚えていますか?
 はい、兵士たちがそうしていたのを覚えていますが、どこで、なぜそうしたのかは覚えていません。私はガマシェンを支給されてそれを付けていました。ガマシェンは土がブーツに入るのを防いでいました。

野戦での埋葬をしましたか?説明してください。
 実際に、私は、戦死者がどのように扱われるかにすっかり驚きました。私が軍に入る前に、私は映画で兵士が墓地の近くで火葬され、彼の戦友たちがIch hat eine Kameradenを歌い、牧師が祈るのを見ましたよ。そして彼らが見事にすぐに死ぬか、平和に病院で素敵なナースの腕の中で死にました。私は、私が訓練期間のときに溺死した兵士の素晴らしい葬式に行きました。しかし、前線では私はそのようなものは決して見ませんでした。私たちがしたことは、穴を掘って、彼を埋葬することでした、もし時間があってもです。Saint Vithではただ彼らを積み重ねるか、雪の中に放置しました。地面は凍っていて、墓穴を掘れなかったんです。もし誰かが撃たれて、顔に命中して死んだら、彼の顔がねじれて固まったり、平らになったりして彼が誰だったのかさえ分かりませんでした。酷かったです。良い息子や良き夫が雪の中に縁石の上のゴミ袋のように放置されているのは。私は、1人の女性が前線にいる彼女の兵士のことを考えているのを示し、彼女が「私は前線にいる私のFritzl[おそらく夫か息子の名前だと思われる]のためにこれをやるの。」のようなことを考えているような感傷的な広告を覚えています。彼女が知らないのはFritzlが雪の中で死んでいることでした。私たちは戦傷者について家に手紙を送るのを禁止されていました。

敵の武器で何を1番恐れましたか?
 全部が怖かったです。みんな私を傷つけることができましたから。砲撃がとても嫌でしたが、私はSt. Vithの周りで多くの人が小銃や機関銃で殺されるのを見ました。私たちは開けた地形で戦っていて、あなたが考えるような木々の中ではありません。隠れる場所は何も無くて、私たちはウサギのように撃ち倒されました。Granatwerfer(迫撃砲)も嫌でした。飛んでくるのが聞こえないし、砲撃のように地面に埋まりませんからね。

戦後、故郷の人たちはあなたをどのように扱いましたか?
 みんな彼ら自身の問題で忙しくて、もう1人戻ってきた兵士のことなど気にしませんでした。しかし、連合軍がナチであったり、ナチを支援する理由のあった全ての教師、政治家、警官を一掃しました。戦時中に何かしらの権限を持っていた人はおそらくほとんど全員党員であったので、多くの良い管理者がその職を追われました。連合軍が任命した何人かは、あぁ、彼らは酷かったです。彼らの中には兵士を含めたReichのものを憎んでいる者もいました。彼らのせいで生活が辛くなりました。

あなたの、Eßbesteck(調理器具)やラードケースなどの、食事のための装備品を説明してください。
 私は折りたためるスプーンをポケットに入れていました。私が覚えているのはそれくらいです。


原文:米国のWebサイト Der Erste Zug
http://www.dererstezug.com/VetBecker.htm




同じカテゴリー(翻訳文ーベテランインタビューー)の記事画像
Karl Wegner氏へのインタビュー
同じカテゴリー(翻訳文ーベテランインタビューー)の記事
 Karl Wegner氏へのインタビュー (2011-10-17 01:26)
この記事へのコメント
おお、新しいインタビューですね!
とてもタメになります♪

文中「Marschkompanie Feldwebel」とありますが、訳すと行軍中隊軍曹ですかね。
そういう専門の人がいたのか、移動中任命されていたのか、興味深いですね。
Posted by ハント at 2012年08月04日 12:04
 >>ハントさん
 ありがとうございます。
ライベルトなどから情報を得るのも重要ですけど、実際と教本とではやはり違いがあるかと思いますので(車の運転のように)、色々と面白い話があるのではないかと思います。

 Marschkompanie Feldwebelの件ですが、列車の運行に関連している、兵士たちと同乗している下士官だと思われますけど、詳細は不明です。
こういった細かい点まで調査できれば良いのですが、残念ながらなかなかそうもいきそうにありません;

 改めて調べてみると、やはり奥が深いです。
Posted by ハルトマンハルトマン at 2012年08月05日 01:21
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。