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Posted by ミリタリーブログ at

2011年10月17日

Karl Wegner氏へのインタビュー

 本文に入る前に、まずこの記事を翻訳したものとはいえ、転載することを快く許可してくれたアメリカのリエナクトグループであるDer Erste Zug http://www.dererstezug.com/index.htm の方々、そして原文を書くために努力した方々や、翻訳に当たって協力してくれた友人たちに心から感謝したいと思います。
 これらの協力がなければ、今私達がこの資料を共有することは出来なかったと思います。
 I would like to thank Der Erste Zug for permitting to quote this article.
Without their efforts and generosity, we would not have been able to share these valuable research.

 Karl Wegner
Eric Tobeyによるインタビュー
 以下の素晴らしいインタビューは1993年6月にVince Milanoによって実施された。その素晴らしい紳士であるベテランはKarl Wegner(カール・ヴェグナー)といい、かつての第352歩兵師団 第914擲弾兵連隊のメンバーである。ヴェグナーさんは恥ずべき“102のドイツのベテラン兵士への質問”のすべてに答えてくれた数少ないベテランであり、彼の回答は紛れもなく情報の宝庫である。



Q.あなたは今までにHBTの制服を戦闘中に着ましたか?
A.ノルマンディーでは6月の終わりまで夜はとても寒かったのですが、私たちはいつもそれを着ていました。私たちは1組のダブダブのHBTのズボンを持っていて、それは快適でしたし、上着は私の平常服と同じようにカットされたもので、同じ記章が付いていました。

Q.どうしていくつかのドッグタグは血液型の欄を欠いているのですか?入れ墨してあったのですか?
A.よく覚えていませんが、私が兵役に就いたとき、私の血液型はタグに書かれていました。それは覚えています。私はSSのような入れ墨をしたことはありませんが、私のだいたい1年後から来た、彼の血液型が彼のタグに書かれていて、彼の脚に入れ墨がしてある仲間には会いました。彼は彼ら(軍のことか?)が彼に訓練中に入れ墨をし、誰も2日間歩けなく、感染症に囲まれていたと言いました。これはある種の技術となり得たのでしょうが、脚を吹き飛ばされてしまったら無意味でした。

Q.あなたはSoldbuchを戦場に持って行きましたか?
A.6月の最初の週に私たちが警戒待機になったとき、私たちはSoldbuchを取り上げられ、その代わりに小さなKennkarten(IDカード)を与えられた。しかし、戦闘が始まって2日ほど経ったとき、私たちはSoldbuchを取り戻した、というのも後方の事務員にただ時間が無かったのか運ぶためのガソリンがなかったのか、多くの事務員が歩兵として強制的に兵役に就かされたためだろう。

Q.どんな歌を歌いましたか?
A.えーっと、私たちはLili Marlene, Westerwald, Argonnerwald, Der Jager aus Kurplatz,そしてその他の多くの歌を歌いました。私のお気に入りはErikaでした。私たちは多くの汚い歌をドイツ語・フランス語両方で習いました。

Q.どのように分隊が組織されていたかを説明してください。
A.私たちのGruppe(分隊)は常に9人でした、UnteroffizierかObergefreiterが指揮をし、MGの担当がいて、そして残りは歩兵です。戦闘中、あなたたちはMGを中心に4~5人にだんだん少なくなる[原文が何を指しているのかが不明瞭なので、適当な訳ではないかもしれません。]。もしあなたが分隊のMGを失ったら、あなたはMG要員が支援している間、攻撃や反撃のためにもっとこき使われることになるでしょう。私たちはMGを失ったことは1度もありません、なぜなら私たちはナンバーワンだったからです!

Q. Marketenderwäreについて説明してください。
A.えーっと、私たちはKantine(兵舎や工場などの食堂・売店)やKrammer(部隊の店)からいろいろなものを買うことができましたが、ノルマンディーの地元のから買うことを選びました。というのもその方がより良いものや食べ物を交換したり手に入れることができたからです。私はタバコを吸わなかったので支給されたタバコと私が安く手に入れられるものは家の父に送りました。しかし、いくつかのものはお金としてフランスで使う為にとっておきました。私はほとんどお金がなくても本当に申し分なく生活していました。

Q. Fußlappenと靴下について説明してください。
A.私は1度もFußlappenを持ったことはないです、靴下のみです。年上の人で持っていた人はいましたが、私はそれをブーツを履くときに着けるのにわざわざ時間をかけられなかった。

Q.あなたは何を持っていましたか?リュック、Tornister(背嚢)、それともAフレームですか?
A.私はリュックとAフレームの両方を持っていました。リュックは大きくて私は何でも入れられてよかったです。Aフレームは戦闘中にずっと着けていました。それは付けていても楽で、私が必要なものだけをストラップで付けるか、その小さなポーチに入れていました。

Q.あなたは自分の名前を制服や装備品につけていましたか?
A.はい。私たちはそれを規則に従ってする必要があり、ペンか鉛筆で私が支給されたすべてのものに記名しました。

Q.あなたはガスマスクを捨てましたか?
A.1944年6月7日までは捨てませんでした。誰もそのことについて戦闘中も確認しませんでした(メモ:彼がガスマスクだけのことを言っているのか、ガス缶のことを言っているのかは不明瞭です。私たちの受けた印象では、彼は単にマスクのことをさしていたのでしょう。ですから、ガス缶を持っていればつけてください)。

Q.基礎訓練について説明してください。
A.えーっと、それは昔のことですし、私の記憶の中から戦闘の記憶とは異なって多少薄れています。覚えている限りでは、私たちは朝の5時くらいに起きて、1日中走らされてボロボロにされましたし、点検や清掃やらいろいろな訓練もさせられました。そしてCSSR[Czechoslovak Socialist Republic:チェコのこと]のSlaný[スラニー:町の名前;ドイツ名Schlan]では街で巡回や警備などの占領任務をする必要がありました。

Q.あなたはほかの組織:海軍、空軍、SSとどのように接していましたか?
A.私たちはSSを除いて、何も問題なくやっていました。彼らの振る舞いはよそよそしかったですし、たとえあの兵士どもがよりよく訓練されていて装備やその他が良かったとしても、彼らの生意気な態度の前ではそれは他の兵たちに見向きもしない理由にはならない。

Q.あなたの野戦食について説明してください。
A.それは単純です:私たちが徴発したものや、コック(炊事担当の人)が道で見つけて私たちに食べさせたものすべてですよ、ハハハ。でも、食べ物は悪かったですね。それが私たちが夜に食事をとった理由のひとつです、そうすれば見る必要はないですからね!

Q.どんな勲章をあなたは受章しましたか?
A.私は歩兵突撃章と白兵戦章を受賞する資格があったと教えられました。私はそれらを手に入れたことはありませんが、Milanoさんは適切な機関[退役軍人についての問題を扱う役所のこと?]を私にそれらを得られるようにと教えてくれました。

Q.あなたは野戦帽を被らないときに、それをどこにしまっておきましたか?
A.私たちは野戦帽をベルトに挟んだり、上着の下のポケットにしまったり、雑納に入れたり、そのほかどこでもその時に都合のいい場所にしまっていました。

Q.PutzとFlickstundeとは何ですか?
A.それは兵舎の掃除という意味です。私は兵舎のトイレを掃除する名誉が与えられました。

Q.召集の時、何をチェックされましたか?
A.もちろん、招集の時には全員が集合させられましたし、そうする責任がありました。えーっと、私たちは制服を正しく着ている必要がありました、ボタンが取れていたり、汚れていたりしてはいけません。私たちの装備品は整えられました、たとえばベルトのバックルは上着のボタンの線に合わせる、などです。

Q.様々なドイツの地方から来た兵士たちの間に違いはありましたか?
A.えーっと、方言が違いの1つですね。時々、私はHunsruck出身の兵士たちが何を言っているか分かりませんでしたし、彼らも私の言うことが分からなかったです。ベルリンの人はよそよそしく、バイエルンの人はうるさく、楽しいことが好きでした。あとは、街から来た人は田舎の人ほど良くはなかったとかですね。でも、私たちは本当に仲良くやってましたよ。

Q.どのように(どのくらいの頻度で)給与を受け取りましたか?どんな通貨を使いましたか?
A.だいたい14日ごとに私たちは給与をもらいました、それは占領地のお金で支払われ、フランスのだけでなく、ベルギーやオランダ、ノルウェーなどのものもありました。兵士たちにとっては良いことでしたが、現地の人々はフランスのかベルギーのものしか受け取りませんでした。その残りは家族に送られるか、独り身の人々のために政府の講座に送られました。

Q.野戦であなたはどんなカモフラージュを用いましたか?
A.私たちのツェルトバーンですね、あとはゴムバンドや革のストラップを、ヘルメットにネットと葉っぱを着けるのに使いました。ヘルメットに上手く迷彩柄を描いた人もいて、それもまた非常に効果的でした。

Q.典型的な点呼について説明してください。
A.これはあなたがどこに居るかに因ります。地方に配置されている間は、私たちは私たちのZugfeldwebel(直訳だと小隊の軍曹)によってのみ、その義務がありました。駐屯地の場合、私たちはSpieß(曹長の意味:おそらく俗語。)による中隊の点呼に出る義務がありましたが、それは嫌なものでした。そしてこれらのタイミング(点呼の時間)はノルマンディーでは変更されましたが、ドイツでは私たちは朝と夕方に点呼をとられました。

Q.あなたが居た中で最悪の場所を教えてください。
A.難しいですねぇ・・・敢えて選ぶのならSt. Loを通過するときの攻撃の終わりですね。その日、私はもっとも親しい友達を失ってしまいました。

Q.あなたは何か陸軍の俗語を覚えていますか?
A.あなたは、例えばWarmer Bruder(暖かい兄弟:ゲイの意味)や、Offizierdecke(将校の掛け布団:売春婦の意味)、Barrackepferde(兵舎の馬:兵舎の種馬の意味)などを指しているのですね。私たちはこういうものを色々と知っていました。

Q.何か面白い話はありますか?
A.えーっと、私が覚えているのは、訓練のときに私たちを酷く扱う、あるFeldwebel(軍曹)が居たことです。それは陸軍の訓練としてではなく、単に彼がサディスティックだからだったです。私たちの何人かが仕返しをしようと決め、彼の部屋に忍び込みました。私たちは彼の制服、上着、ズボンのすべてのボタンを切り落とし、そして彼のブーツの中に、あー・・・ほっとしました[訳不明:ニュアンスを考えるとおそらくブーツの中に小便をしたのか、糞をしたのか、もしくは謎の白い液体を出したのか・・・?]。彼が点呼に私たちと一緒に居なかったので、Spieß(曹長の俗称)はとても腹を立てていました。私は彼に何が起こったのかは知りません、というのも私たちはちょうどその朝にフランスへと送られたからです。だから私たちは仕返しをしてやったんですよ!

Q.防寒着について説明してください
A.1度も冬には戦いませんでした(彼はノルマンディーで捕虜になっている)。私が得たのはコートとウールの手袋です。

Q.あなたは今までにFührer Geschenk[総統からの贈り物:兵たちに送られた嗜好品などと思われる]を受け取りましたか?
A.私は1度も受け取ったことはありません、私は捕虜としてというのを除けば前線から離れたことはありませんし、基礎訓練の後の休暇のためにそのことは考えなかったのですから。

Q.野営について説明してください
A.あなたはZeltbahnのテントを3人か4人ずつ、分隊ごとに列に並べることについて言っているのですね?それは悪いものではありませんでした、というのも狭苦しい環境のおかげで私たちは暖かくすごせましたから。

Q.カード遊びは人気でしたか?
A.私たちはSkatをよくやりましたし、それによってお金を得たり失ったりしました。何人かの真性のギャンブラーは時計や指輪などを賭けていましたね。

Q.従軍牧師に関して何か思い出はありますか?
A.はい、確かに私たちの周りには牧師がいましたし、彼らは戦闘中に前線にやって来ました。彼らのための避難所はたくさんありましたし、私たちはそんなに頻繁には彼らを見ませんでしたが、彼らは私たちを、そして捕虜のアメリカ兵も祝福してくれました(キリスト教関連のことなので、よく分かりませんが;)。時々、彼らはHauptverbandplatz(直訳すると主要な部隊の場所:おそらくある程度大規模な部隊の本部を指すと思われる。)に留まり、医師たちを援けていました。

Q.衛生兵に関して何か思い出はありますか?
A.私たちのSannis(衛生兵)は本当に献身的な人たちでした、私はあなたたちと共に前線に向かった人たちのことを言っています。彼らは銃火の下で這いずり回り、兵士たちを助けました。彼らは毎日命がけでしていました。しかし、Verbandplatz(適切な訳は不明だが、上記のように部隊が集まっている場所だと思われる。)やFeldlazerett(野戦病院:正しくはFeldlazarett。原文の綴りミスと思われる。)に戻ると、彼らからすればあなたたち(衛生兵に対してその他の兵と思われる)は単なる肉の塊であって、彼らが出来たのであれば、あなたたちからこっそりと何かを盗んだでしょう!

Q.あなたは兵士の慰安・娯楽としてどんなものを受けましたか?
A.私たちは通過する田舎の映画館で映画を見ましたし、陸軍からはあなたたちが想像できる限りの様々な娯楽を受けました。しかし、そのための時間はいつも、十分にはありませんでした。

Q.地元の住民との関係はどうでしたか?
A.彼らは非常に愛想が良かったですよ、でも、距離を置く人もいましたね、彼らは一般人への報復よりも、子供たちへのそれを恐れていたようです。(おそらく、無愛想にしたり抵抗した場合のドイツ軍からの報復を指しているのだろう。)

Q.兵舎での銃器の保存はどうしていたのですか?
A.私たちは小銃を銃架(ガンラックとでも言うのだろうか?)などに置いていました。訓練の時にはWaffenmeister(銃器を扱う係りの兵)が武器庫に保存していました、というのもこれらの銃器は単に私たちが訓練に使うものだったからです。

Q.終戦のとき、あなたはどう思いましたか?
A.私は誰が勝ったかなんて気にしませんでした、怪我をしていたので、ただ単に戦争が終わって嬉しかったですね。

Q.どんな髪型でしたか?ヒゲを生やした人に覚えはありますか?
A.私たちの髪はちょっと長かったですね、上のほうはくしでとかせるように、でもサイドはプロイセン風の短いものでした。船乗りのように全体を短く切っている人もいましたね。長い髪の人は[帽子やヘルメットに収める為にと思われるが]たくさんのワックスを使っていました。年長の人はヒゲを生やしている人もいましたが、それは戦争の後期になるまでは一般的ではなかったですね。

Q.あなたの部隊でシラミ持ちの人はいましたか?
A.いいえ、全くいませんでした。

Q.野戦ではあなたはどのようにして制服を洗濯しましたか?
A.フランスでは私たちは地元の家族にお金を特別に払って洗濯していました。それは安かったですし、彼らはちゃんとやってくれました、それに加えて、私たちは彼らの娘に会いましたしね。自分たちでやるよりも良かったですよ。

Q.あなたは今までに鹵獲した装備を使いましたか?
A.はい。私たちはAmis(アミー:アメリカ兵のこと)から鹵獲した手榴弾とFlare[照明弾のことか?]を使いました、本当にそれらは便利でしたよ、特に乗り物と食べ物は、お土産[戦利品か?]としてでは無くね。

Q.あなたは敵に対してどんな感情を持ちましたか?
A.アメリカ人は良い兵士でしたし良い人でしたよ。彼らの私たちへの待遇は大体公平なものでした。私は彼らのJabo(戦闘爆撃機)のパイロットを除けば不満はありませんよ。

Q.あなたはWehrmachtのドイツ人ではない兵士と会ったことはありますか?
A.もちろん、たくさんいましたよ。私たちはポーランド人、アルザス人、そして多くのロシア人と会いました。基本的に、彼らは良い兵士で命令に従いましたが、集団になると彼らは役立たずになりました。

Q.あなたは定期的に手紙のやりとりをしましたか?
A.侵攻前[いつのことを言っているのか不明]は定期的にやりとりがありましたが、その後は捕虜になるまで全くやり取りがありませんでした。

Q.あなたはクリスマスに何か特別なお祝いをしましたか?
A.私たちは家に帰らない仲間のためにパーティのようなものをしました。コックは私たちのために特別なものなどを作ってくれました。たくさん酒を飲んで、次の日は二日酔いでした。

Q. Local pass[おそらく外出許可か?]を得るためにはどんな規則や条件がありましたか?
A.えーっと、もしあなたが許可を得たら、UvD[Unteroffizier von Dienst:直訳だと勤務の下士官となるが、おそらく担当の下士官という意味合いだろう]に報告する。彼はあなたを取り調べ、適切な命令の下ですべてを明確にするので、Kettenhund(鎖でつながれた犬:憲兵の意味)はあなたを悩ますことはないだろう。それで、彼があなたはOKだと言えば、あなたは許可書にある用件のために出かけることができる。

Q.あなたはエスビットを持っていましたか?
A.いいえ、ありませんでした。

Q.個人の外観(服装など)について野戦で規則を強要されましたか?
A.いいえ、初日以降はそれは一般的ではなかったです、しかし戦闘後の休憩のときは規則がありました。全員が出来る限りきれいに、修理できるものは修理する必要がありました。しかし、シラミなどに関する個人の衛生面については強要されましたね。私たちは小川や川の近くに居るときは体を洗いました。

Q.基礎訓練であなたはどんな種類の戦闘訓練を受けましたか?
A.私にとって、戦争の期間のうち、私が徴兵されたときは、私たちは一般的な戦闘のためのものしか習いませんでした。私たちが習ったのは小銃の訓練、銃剣の訓練、基本的な戦術の訓練、それにあなたも知っているでしょうがどのようにして匍匐するかや、どうやって穴を掘るかなどです。私は第352歩兵師団に所属するまで細かいことは全く習いませんでした。細かい戦闘訓練は私たちが割り当てられるだろう部隊で受けたのです。

Q.鉄道を用いた移動について何か覚えていますか?
A.えーっと、これはおもしろいですよ!徴兵された兵士が正式に外出するときや、許可されて旅行するときは一般人と共に普通席を使いますが、兵役の間に集団で移動させられる場合は貨車や家畜車でした。これについてはBahnhof Kommandateuer[適当な訳不明;おそらく駅に居る部隊長:Bahnhof Kommandeurを指すと思われる]が両者を簡単に見分けることが出来るようにするためでしょう。彼らは緊急事態の場合、まず兵役についている彼らを動員することになるでしょう。

Q.あなたは休暇をとりましたか?
A.最初の訓練のすぐ後にとりました。私は家族に会いに行きましたよ、わくわくするようなことは何もありませんでした。

Q.あなたはWeb gear(布製の装備品)を支給されましたか?
A.アフリカからのものですか?えぇ、もちろん、私たちはそれらをたくさん持っていました。私の銃剣の剣つりは水筒のストラップのように布製でした。多くの人の装備品一式は布製でした、あなたも知っているように、ベルトや、Yサスペンダーなどすべてです!

Q.あなたは戦闘のとき、どこに背嚢を置いておきましたか?
A.それらは大隊にある私たちの小隊の荷車の中に置かれました。各部隊には段列(補給部隊などの車の列)の中に各々の荷車がありました、あなたも知っているように。[詳細不明、写真や他の文献と照らし合わせる要あり。]

Q.戦場で何か読むものを手に入れましたか?
A.はい、SignalやDie Wehrmacht、それに新聞などですね、でも一番良かったのはフランスの私たちが手に入れるとは思わなかった雑誌ですね。ポルノ雑誌もありました。でも、アメリカ兵たちはそれらを私たちからいつも自分たちで見るために取り上げました。

Q. Jaboへの対策はどのようにしましたか?
A.もし私たちが十分な弾薬を持っていれば、私たちは私があなたに説明したような罠を仕掛けることが出来ました。そうでなければ、私たちが移動中にJaboが来たとき、私たちは出来るだけ良い遮蔽物に隠れる必要がありました。時々、もし私たちが出来たのであれば、私たちはアメリカ軍のものと同じ色の煙幕手榴弾を使ったでしょう。これによって彼らの戦線を示し、Jaboはそこに対しては攻撃をしないのです。もし私たちが同じ煙幕を使ったら、彼らは私たちも攻撃しないでしょう!

Q.あなたはどのように、そしていつ、戦場で衣服の再支給を受けましたか?
A.侵攻前は、中隊の職人[おそらく、衣服の補充などを担当していた者を指すと思われる]にもう修繕するのは無理だと示す必要があり、そしてその時に再支給を受けることが出来ました。侵攻後、私たちは死んだ者や負傷した者から衣服を取る必要がありました、というのも私たちはほんの少しの軍需品と食料しか補給されなかったからです。

Q.あなたはロウソクを野戦のために支給されましたか?
A.はい、小さな灯油浸りのもの(芯に灯油が染み込んでいるものという意味か?)です。それは本当によく燃えましたよ。

Q.あなたはコートを着ないとき、どこに置いておきましたか?
A.丸めて私のリュックにストラップで付けて、後方の小隊の車[詳細不明]に置いておきました。

Q. Zapfenstreich[帰営時間、門限、帰営ラッパなどを指す]について何か覚えていることはありますか?
A.これはアメリカ人の言う、夜の国旗降下式[英語のretreatを訳したものなので、詳細は不明]ですね、それは私の息子に教えてもらったことです、これは実際のところ兵舎にいる間にだけありました。地方にいる間のことは良く覚えていませんね。

Q.あなたのHauptfeldwebel:der Spießについて何か覚えていることはありますか?
A.私たちの中隊のSpießはThiessenという名前でした。彼が話すときは、髪の毛でさえ気をつけをしましたよ。彼はまるで釘のようにタフで、いつも私たちと一緒に前線にいました。私は彼が会社の事務員になりたがっていたなんて思いませんよ。彼はSt.Lo(サン・ロー)陥落の少し前に負傷してしまいました。

Q.あなたは小銃擲弾[ライフルグレネード:シースベッヒャーのことか?]を見ましたか?
A.もちろん、各分隊に1つありました。私はそれで目標に命中させるのは苦手でした。でも、熟練した人なら、家の煙突に擲弾を撃ち込めましたよ!

Q.あなたはブラシやソーイングセットを持ってましたか?
A.私は衣服用のものと靴用のブラシを持っていました、両方とも丈夫でよくできていましたよ。私のソーイングセットは小さな革の入れ物に糸と針、予備のボタンが入っていました。しっかりとしたものでした。それは私の父がくれたものなんです。

Q.あなたは磁石付きの地雷や煙幕手榴弾、パンツァーファウストなどの対戦車兵器の訓練を受けましたか?
A.私たちがフランスに着いたとき、これらの武器の訓練を受けました、中でもパンツァーファウストは効果的でしたね。私はそれらが使われるのをたくさん機関銃分隊の一員として見ましたが、私は戦闘では1度も使いませんでした、というのも私は支援射撃をしていましたから。

Q.ドイツの兵舎はどのようなものだったのですか?
A.確か、4つの兵舎で1つのブロックとなっていたと思います。中隊ごとに兵舎の周りのグランドに四角になるように整列しました。

Q.あなたはトレンチナイフを持っていましたか?
A.いいえ、銃剣だけです。これらのナイフはたくさん中隊に支給されました、そして運が良ければ手に入れられましたし、Kantineで買うこともできました。

Q.夜間戦闘の訓練をうけましたか?
A.はい、何度も。私たちがノルマンディーに着いてからです。

Q.あなたは缶詰の糧食を支給されましたか?
A.最初だけです。肉はその地元の豚肉で、味付けがしてあってとても美味しかったです。あなたがたがHardtackと呼ぶであろうクラッカーもありました。私たちはそれらを持っているときはいつも食べました。

Q.Feldgendarmerie:Kettenhund(憲兵)について何か覚えていることはありますか?
A.こいつらは私たちを苦しめて大喜びしていましたよ、私たちがどんなことをしていてもです!でも、最初の銃声が鳴り響いた後は彼らを1度も見かけませんでしたね。

Q.娯楽・気晴らしとして何か覚えていることはありますか?
A.私は出来るときはただ読書をしたり寝たりしていました。私たちが暇で何をしても良いようなときは、見世物を見に行ったり、売春宿に行こうとしたり、地元の女の子をナンパしようとしたりしました。

Q.陸軍に入った最初の1日を説明してください。
A.そのときは多くの必要なことをするのにそこらじゅうを走り回ってました。最初に私たちはSoldbuchとErkennungsmarke(ドックタグ)を受け取りました。そして装備品を支給され、健康診断を受けました。今思い返すと、とにかく忙しくて混乱していましたね。

Q.時計を持っていましたか?
A.私は父にもらった腕時計を持っていました。

Q.サスペンダーを着けていましたか?
A.もちろんです、そうしないと1歩歩くごとにズボンが足首まで落ちてきてしまいますからね!

Q.電話にはどのように受け答えしましたか?
A.私が覚えているのは、私たちが電話に出たとき、"W.N.77, Hier Wegner."のようなことを言う必要があったくらいですね。[W.N.はWehrnummerを表すと思われる。そして、こちら~と名前を言うのだろう。]

Q.懲罰として何か覚えていることはありますか?
A.多くの場合、それは適当な厳しい余分な仕事でした、しかし本当にヘマをしたときは懲罰大隊と一緒に東へ送られました。私はいつも良い兵士だったので、問題はありませんでした。

Q.兵隊のための教本をもっていましたか?
A.はい、私たちはそれを買う必要がありました。たった2~3マルクでしたね。私はそれをどうしたのか覚えていません。

Q.カメラを持っていましたか?
A.いいえ。

Q.HIWIS[Hilfswilliger:現地のボランティアとでも言うのだろうか]に関して何か覚えていますか?
A.彼らは熱心に手助けをしてきて、私たちのブーツをなめてきれいにしましたよ。これには時々うんざりする人もいましたが、彼らは努力したし、私たちは彼らに色々な仕事をさせました。

Q.女性のHIWISを見ましたか?
A.はい、彼女たちはフィールドキッチンで働かされましたから。私たちの師団の多くの部隊に彼女たちはいました。私は戦闘が始まった後の彼女たちの悲運は全く知りません。

Q.あなたは懐中電灯を持っていましたか?
A.はい、素晴らしい小物でした。野戦服の右側のボタンに付ければ、自由に作業をしたり書いたり出来ました。

Q.あなたの指揮官に対してどのように感じましたか?
A. Kraiss将軍とHeyna大佐は良い指揮官でした。彼らは私たちのために全力を尽くしてくれましたし、何度も前線に来ました。未だに私はKraissのことを覚えています、彼はとても小柄で、ヘルメットを被り、MP40を持っていました。彼はアメリカ兵に対して何度か発砲したことさえあったでしょう。でも、GROFAZ(ヒトラーのこと)やそのほかについては、私は彼らが地獄で苦しんでいることを願いますよ。

Q.誰に対して敬礼することを求められましたか?
A.私たちは将校とUnterfeldwebelより上の階級のUnteroffizier mit Portepee(上級下士官:Stabsfeldwebel, Hauptfeldwebel, Oberfeldwebel, Feldwebelなどを指す。兵科によっては~wachtmeisterとなる場合もある。)人に対して敬礼しました。

Q.様々な階級に対する正しい呼称はどのようなものでしたか?
A.Unteroffizierかそれ以上の人には常に“Herr”をつけて呼びました。しかし、GefreiterとObergefreiterはパレードの隊形のときはこれに含まれました。たいていの場合、私たちは単に彼らの名前を呼ぶときに使いました。私たちは皆、このレベルの階級では近しかったんです。


Q.NSFO(ナチスの政治委員)に関して何か覚えていることはありますか?
A.私たちは週に1度、侵攻前は訓練の間に彼らの指導を受けました。それは非常に退屈なものでしたが、私たちは行く必要がありました。戦闘が始まると私たちは1度も彼らのようなBarrackepferdeを見ませんでしたし、もし私たちが彼らは私たちの味方だと承知していても、彼らを撃ってしまったでしょう。

Q.どこに財布をしまっていましたか?
A.私のズボンのポケットです。

Q.ハリウッド映画におけるドイツ兵の描写としてもっとも大きな間違いは何だと思いますか?
A.制服とその着方以外とすると、ドイツ兵が常に無鉄砲で愚かにも走り出してGI(アメリカ兵のこと)の機関銃の銃火の挨拶の下で死ぬことでしょう。間違っています。私たちは良い兵士でしたし、よく戦いました。1度、私はハリウッドの制作陣にこのことを言いたいですね。

Q.召集と徴兵の過程はどのようなものだったのですか?
A.私の場合、17歳の誕生日の後に出頭する日程を知らされ、それから健康診断を受け、補充部隊に送られました。私の場合はハノーファーの第171補充部隊でした。[徴兵についてはKKワールドフォトプレスのMilitary Forces of the Third Reichなどを参照のこと。]

Q.あなたがポケットに入れていた一般的なものは何ですか?
A.財布、ポケットナイフ、1切れのパン、聖書のような小さい本、それにフランス語の辞書ですね。これらすべてのものは役に立つものでした。

Q.ポケットナイフを持っていましたか?
A.はい、父からの贈り物でした。それは軍のものではありませんでしたが、より良いものでした。私は私からそれを取り上げたアメリカ兵がそれを大切に使ってくれることを期待しますよ。

Q.あなたはビールを手に入れましたか?
A.これは食料と一緒に来たのでしょうが、ノルマンディーでは私たちはほとんど手に入れられませんでした。

Q.あなたはガマシェンを身に着けましたか?
A.最初、私はコイツをアンクルブーツと一緒に持っていました。嬉しくはありませんでしたね。それから砲兵のFeldwebelである私の兄が私に彼の古いジャックブーツを送ってくれました。きちんと手入れされていて靴底も張り替えられてありました。これは私が得た中で一番良いブーツでした。もちろんアンクルブーツも持ち続けましたが、2度と履くことはありませんでしたよ。

Q.野戦でのトイレについて説明してください。
A.戦闘の最中では、ただどこかに行って用を足すだけでした。私たちは本当にちゃんとしたトイレを作る時間が無かったのです。地方では地下の壕の中に非常に良い場所がありました。

Q.自転車について何か覚えていることはありますか?
A.多くは私たちの部隊の周りにいました。私が覚えているのはJaboどもが自転車部隊を攻撃したときに、100台以上の自転車が道に散らばっている光景ですね。(追記:これはおそらく第30Schnell Brigadeだと思われる。)

Q.あなたの部隊の野戦服はどのようなものでしたか?皆同じようなものでしたか?
A.興味深いことですね!私たちがAusbildungs Abt.(訓練部隊のこと)から離れたとき、私たちはみんな同じでした。しかし、第352師団に分散して年長の人や民族ドイツ人たちと一緒に入った後は、そこには非常に異なった野戦服がありました、襟、形など様々です。

Q.市街地戦に関して説明してください。
A.それは危険で、攻撃側も防御側も命にかかわるようなものでした。もっとも悪いことは隠れている建物でさえ砲撃やJaboにとっては大きな標的になることです。私は生垣の中の蛸壺のほうが好ましかったですよ。

Q.敵の兵器でもっとも恐ろしかったのはなんですか?
A. Jaboです!

Q.どのようにしてドックタグを着けていましたか?
A.革のポーチに入れて首に下げていました。

Q.あなたの野戦帽についてと、それをどのように被ったかについて説明してください。
A.私は山岳猟兵のもののようなものを持っていました。それはスマートなものでした。前線では規則の検査があって、私たちはそれをベルトに挟んでいました。戦場では私たちはそれをだらしなく被っていました。

Q.Essenträgerに関して説明してください。
A.それは全て夜に運ばれてくるもので、私たちにとっては単なる余計な仕事で、大嫌いでした。しかし、それはわずかながら追加の食料を意味するものでもありました。

Q.戦後、あなたは人々からどのように扱われましたか?
A.息子が居て、その息子が戦ったり戦死している人たちからは悪く扱われませんでした。しかし、新政府からは酷い扱いを受けましたね。ヒトラーの時代の間、彼らが受けた扱いのお返しでしょう。


Wegner氏から最後にコメントです。
私は何年もの沈黙を経て私の従軍について話せることを嬉しく思っていることを言いたいです。私はテレビとハリウッドのおかげで私がある種の怪物だったのではないかと信じそうになっていました。私の子供たちでさえ、私の従軍を恥じ入っています。今私は、あなたたちのような、私たちが祖国のために戦った若者だったのだと理解してくれる良い人々が居るのだと知りました。えぇ、それは悪魔のような政府でしたが、私たちはそれしか知らなかったのです。私は今一度誇りを持って言います、私はGrenadierでした。私はハリウッドのいうような怪物の墓に入るつもりはありません。この年老いた男に青年時代のことを話させてくれたこと、そしてもう一度戦士のようにドキドキさせてくれてありがとう。


 これらのものは、Der Erste Zugの方々から許可を頂いて転載させていただいています。
自分の翻訳は非常に稚拙なため、英語が少しでも出来る方は原文のものを読んでみることをオススメします。
自分の訳では伝わらないことも、英語のものではニュアンスなどから読み取れることもあるかと思います。
また[ ]の中は自分がおそらく理解しやすくなるだろう、ということで付け加えたものです。
この記事に関して、分からないことや、意味が分からないことがありましたら、コメントして頂けたら、自分のような若輩者でも答えられるものには答えていきたいと思っています。

原文:米国のWebサイト Der Erste Zug
http://www.dererstezug.com/VetWegner.htm

追記:[ ]の内容が自分で付け加えた内容である、と書きましたが、通常の( )でも、自分の意見を書き込んでいるものがまぎれていました。
いずれ訂正する予定ですが、それまでの間、読むときは注意して読んでください。  

2011年10月06日

ドイツ軍の号令・伏せろ

 本文に入る前に、まずこの記事を翻訳したものとはいえ、転載することを快く許可してくれたアメリカのリエナクトグループであるDer Erste Zug http://www.dererstezug.com/index.htm の方々、そして原文を書くために努力した方々や、翻訳に当たって協力してくれた友人たちに心から感謝したいと思います。
 これらの協力がなければ、今私達がこの資料を共有することは出来なかったと思います。
 I would like to thank Der Erste Zug for permitting to quote this article.
Without their efforts and generosity, we would not have been able to share these valuable research.



Hinlegen!
   (ヒン・レーゲン!またはヒン・リーゲンに聞こえることも):伏せろ!

 兵士は左足をだいたい1歩前に出し、右足で膝をつく。同時に、小銃を左手で持ち(右手から持ち代える)、銃口をいくぶんか上げる(大体45°くらい)。前かがみになり、前の地面に平らに、左ひざ、次に右手、そして左ひじ、と、体を支えながら倒れる。







 これら全ての動作は素早くする。(右ひざ、左ひざ、右手、左ひじという順番を忘れずに!)銃のストック(銃床)の前と後ろのバレルバンドは左腕の前あたりに置く。(メモ:兵士は右手で銃を支えている。)銃身は左外側へ向ける。銃口とボルト部分はどんな状況でも地面に触れさせない。頭は上げ、視線は前を向き、兵士は力を抜いている。

よくある間違い
1. 小銃が左手で持たれていない、もしくは銃床の支点にある。
2. 伏せるときの正しい手順は:右ひざ、左ひざ・・・に従っていない。
前に向かって伏せない。
3. 小銃がねじれたり、曲がって左手の上にあるか、銃床が極端に体から離れている。
4. 頭が上がっておらず、前を見ずに地面を見ている。



Auf!(アウフ!またはアオフ!と聞こえることも):立て!
 兵士は左手を銃の支点に置き、銃口をわずかに持ち上げる。体を右手で支え、同時に右脚を前に、お腹にできるだけ近づけるように動かす。これは体を地面から持ち上げずに行われる。そして兵士は、右手で体を持ち上げ、左足を前に、右足を後ろに出す。同時に、小銃を右手でつかみ、立て銃の態勢になる。





 これらのものは、Der Erste Zugの方々から許可を頂いて転載させていただいています。
自分の翻訳は非常に稚拙なため、英語が少しでも出来る方は原文のものを読んでみることをオススメします。
自分の訳では伝わらないことも、英語のものではニュアンスなどから読み取れることもあるかと思います。
また[ ]の中は自分がおそらく理解しやすくなるだろう、ということで付け加えたものです。
この記事に関して、分からないことや、意味が分からないことがありましたら、コメントして頂けたら、自分のような若輩者でも答えられるものには答えていきたいと思っています。


原文:米国のWebサイト Der Erste Zug
http://www.dererstezug.com/hinlegen.htm

  

Posted by ハルトマン at 23:02Comments(2)翻訳文ー命令・戦術などー

2011年10月06日

ドイツ軍の号令・銃器関連

 本文に入る前に、まずこの記事を翻訳したものとはいえ、転載することを快く許可してくれたアメリカのリエナクトグループであるDer Erste Zug http://www.dererstezug.com/index.htm の方々、そして原文を書くために努力した方々や、翻訳に当たって協力してくれた友人たちに心から感謝したいと思います。
 これらの協力がなければ、今私達がこの資料を共有することは出来なかったと思います。
 I would like to thank Der Erste Zug for permitting to quote this article.
Without their efforts and generosity, we would not have been able to share these valuable research.


Gewehr ab(ゲヴェーァ・アプ):立て銃
 Angetretenと命令されたとき、常にこの態勢で気をつけ(かかとを合わせ、つま先は90°よりわずかに狭くあける)の状態で立つ。銃器(小銃)はバットプレート[肩を当てる部分]を地面に付け、右側に右足の隣に。バットプレートの下の部分は右足のつま先と並べること。右手の指は伸ばし、合わせ、銃のバレルバンドを関節が前に面するように握ること。ひじはわずかに脇から離す。左手は気を付けの状態にすること。




メモ:その他の火器を持つ者は以下のようにすること
1. 短機関銃/突撃銃 Gewehr Umhangenの状態に(右肩に銃をかけておく)
2. 機関銃 機関銃手の右側に2脚を使って地面に置くこと
3. 迫撃砲 迫撃砲分隊の最後の隊員の正面に置くこと
4. パンツァーファウスト/-シュレック 射手の右側に銃口を前に向けて置くこと
5. 弾薬箱 弾薬手の右側に蓋のあけ口を前にして置くか、機関銃の銃口の所に置くこと


Das Gewehr über(ダス・ゲヴェーァ・ユーバー):担え銃 
 ドイツ軍は小銃をその他の国の軍隊とは違い、右肩ではなく左肩に担う。Gewehr abの状態から、銃を右手がアゴのちょうど下あたりに来るように体の正面に持ってくる、左手は右手のちょうど下を持つようにする。銃はだいたい脚から胸の上着のボタンの線にある。銃のボルトは兵士の右に面し、銃の左側が体に向く。左肩に銃を移すのには、右手を銃のボルトの位置まで落とし、銃を90°回すと同時に左手をストック(銃床)の下に動かし、左肩に銃を上げる。トリガーガードはわきのあたりにくる。ちゃんと銃を左肩に置いたら、バットプレートを上着のベルトの下あたりに来るように引き、左のひじはわずかに体から離す。銃はだいたい垂直に体とあるようにする。銃が位置についたら、右手は素早く右側にし、気を付けの姿勢のままにする。








メモ:この命令の時、小銃以外の銃器は以下のようにすること
1. 機関銃 左肩にグリップが胸の位置に来るようにし、左手でバットプレートを小銃の場合と同じように支える。





2. その他の銃器や弾薬箱はそのままの状態であること。




Achtung! Präsentiert Das Gewehr!
         (アハトゥング プレゼンティーアト ダス ゲヴェーァ):捧げ銃
 
 この命令は兵士が銃を左肩に担いでいる時のみに与えられる。命令の時、右手の指を伸ばし、合わせ、ストック(銃床)の上端部(下の左端の図を参考に)へ持っていき、同時にバットプレートを左手で90°時計回りに回転させる。これで銃の右側が体とは反対の方に、左側は体の方に向くようになる。銃をもう一度90°ストックに置いた右手で回し、同時にバットプレートを持っていた左手を離す。離した左手は銃の左側に沿って上に上げていき、ストックのリアサイトの下にあたる部分を握る。左手は伸ばし合わせ、関節が外に向くようにし、親指が上を向くようにする。右手は素直に伸ばし、合わせた4本の指は単にトリガーガードの下に、親指は離し、体に近づいているボルトの下に。銃は左胸のポケットと並行して、トリガーガードは体と反対を向いている。先の方のバレルバンドは左目と同じ高さにあるはずである。






Das Gewehr über(ダス・ゲヴェーァ ユーバー):担え銃 (捧げ銃の状態から戻す) 
 捧げ銃の後、兵士は担え銃を命じられる。これは捧げ銃とは逆に近い動作をする。左手を離し、バットプレートまで戻すのと同時に銃を180°逆時計回りに回転させる。右手はそのままの位置に。バットプレートにある左手と、ガイドのようになる右手で銃を左肩に担う。銃が位置に戻ったら、右手を気を付けの状態に素早く戻す。


Das Gewehr ab(ダス・ゲヴェーァ アプ):立て銃 (担え銃から立て銃への移行) 
 この命令は担え銃の状態で与えられる。これは兵士に銃を左肩からストックのみを地面へ置かせるものである。命令の時、左手を下げると同時に、銃を右に回転させ、バレルバンドの部分を右手で握る。そして、バットプレートにある左手を離すと同時に右側へ右手が地面と平行になる位置に銃を振る。最後に銃のバットプレートを右足のつま先の隣の地面に置く。






Gewehr umhängen(ゲヴェーァ・ウムヘンゲン):吊れ銃 
 この命令は銃器が立て銃の時のみに与えられる。命令の時、スリングを緩め、右肩にかける。右手はスリングを右胸のポケットの位置で親指をスリングと服の間に入れて保持する。ひじは体の方に引く。







メモ:命令の時、小銃以外の銃器は以下のようにすること
1.機関銃 右肩にスリングでかけ、銃口は上に、バイポッドはたたむ。
2.迫撃砲 兵士の右側に、ベースプレートを保持する。





 これらのものは、Der Erste Zugの方々から許可を頂いて転載させていただいています。
自分の翻訳は非常に稚拙なため、英語が少しでも出来る方は原文のものを読んでみることをオススメします。
自分の訳では伝わらないことも、英語のものではニュアンスなどから読み取れることもあるかと思います。
また[ ]の中は自分がおそらく理解しやすくなるだろう、ということで付け加えたものです。
この記事に関して、分からないことや、意味が分からないことがありましたら、コメントして頂けたら、自分のような若輩者でも答えられるものには答えていきたいと思っています。




原文:米国のWebサイト Der Erste Zug
http://www.dererstezug.com/RifleDrill.htm

  

Posted by ハルトマン at 00:50Comments(0)翻訳文ー命令・戦術などー

2011年09月26日

ドイツ軍の号令

 本文に入る前に、まずこの記事を翻訳したものとはいえ、転載することを快く許可してくれたアメリカのリエナクトグループであるDer Erste Zug http://www.dererstezug.com/index.htm の方々、そして原文を書くために努力した方々や、翻訳に当たって協力してくれた友人たちに心から感謝したいと思います。
 これらの協力がなければ、今私達がこの資料を共有することは出来なかったと思います。
 I would like to thank Der Erste Zug for permitting to quote this article.
Without their efforts and generosity, we would not have been able to share these valuable research.

Antreten(アン・トレーテン):整列 
これは本質的には命令ではない。この用語はむしろ、「整列の状態」を指す。ひとつの例として、くだけた感じに「よし、みんな外へ出て整列(antreten)だ」またドイツ語で言うなら"Jedermann, antreten drausen in fünf Minuten!"(みんな、外に5分以内に整列だ!)というように用いる。また正式な命令はAngetreten(アンゲトレーテン)と言い、その前に隊列の型が要る(つまり、"Gruppe! In Linie zu einem Gliede -- Angetreten!" 分隊、一列に--整列!)しかし、antretenと言われたとき、"Rührt Euch"(休め)の態勢でいるのは正しいことである。例えば、毎朝7時の点呼の時、中隊長を待つ間、兵士たちは何気なく外に整列するだろう。

Stillgestanden(シュティル・ゲシュタンデン):気をつけ 
直立不動で、かかとを合わせ、つま先は45°よりわずかに狭めに開き、手と手のひらは太ももの上部に対して水平に、ひじは少し体から離し、目は正面に。この命令の身振りは最初の音節である"Still"に、足は終わりの音節である"stand"に合わせる。

 "Stillgestanden"の時の隊列の例として、隊列の右にいるGruppenführer(分隊長)の横にまっすぐに並ぶ。第1分隊は第2分隊と一直線でなく、第2分隊は第1分隊の真後ろに並ぶ。
  
※Gruppenführer=分隊長
Schützen=兵士
1.Gruppe=第1分隊
2.Gruppe=第2分隊

Angetreten(アン・ゲ・トレーテン):整列 
分隊にとって、この命令は以下のようになる。
・"Gruppe -- In linie zu einem Gliede -- Angetreten!"
(分隊--1列(横)に--整列!)
横1列に整列する。



・"Gruppe -- In linie zu zwei Gliedern -- Angetreten!"
 (分隊--2列(横)に--整列!)
 横2列に整列する。



・"Gruppe -- In Reihe -- Angetreten!"
 (分隊--1列に--整列!)
縦1列に整列する。



・"Gruppe -- In Doppelreihe -- Angetreten!"
 (分隊--2列に--整列!)
縦2列に整列する。



・"Gruppe -- In Marschkolonne -- Angetreten!"
 (分隊--行進の隊列に--整列!)
 3列の縦隊に整列する。




 Angetretenの場合、兵士たちはStillgestandenの状態で立っている。[Stillgestandenの説明は省略する。]


Richt euch(リヒト・オイヒ):列を正す(前ならえのようなもの) 
気をつけの時、素早く頭を右に向け、Flügelmann(列の端の人)を目標に列を正す(すり足のような感じで)。
Flügelmannは右端の先頭の人で頭は動かさない。(もし、彼の後ろに人がいたら、彼もしくは彼らもまた頭を動かさずにいる。)
 もし、Zugführer (小隊長)がこれを命じたら、Gruppenführer(分隊長)だけがFlügelmannになったであろう。事情が変われば、右端の先頭の者がなった。

※Tuchfühlung (衣服が触れ合うくらいの距離)
Zwischenraum(スペース)



 正しい位置に移動する時、Tuchfühlungとして知られている、衣服のひじが本当にわずかに右の人の衣服のひじに触れるくらいの状態にする。近くの人を押しやらないようにすること。腕を動かしたり、手を挙げたり、こぶしを握らないこと。1940年のドイツ軍の訓練法には右手を挙げる方法は用いられていない。(挙げるのは戦後のものである。)
 Flügelmannに列を合わせたら、気を付けの姿勢にし、視線は右に向けたままにする。2列目、3列目の者たちも最前列、右端の人に視線を向け、列を正し、"Augen -- Geradeaus!"(正面を向け!)の命令まで待つ。
[戦後の連邦軍のものであるが、参考までに]
http://www.youtube.com/watch?v=spfpZ_QulRQ&NR=1

Augen—Geradeaus(アオゲン・ゲラーデアオス):正面を向く 
視線を右に向けた状態から、素早く正面を向く。(Richt euchを参照)

Rührt euch(リュート・オイヒ):休め 
脚を肩幅くらいに動かし、左足をわずかに右足より前に出し、重心を右足にかけ、腕を垂れて手は楽にする。話せるのは許可が与えられた時だけである。


Rechts um(レヒツ・ウム):右を向く 
右足のかかとを軸にして回転し、対して左足はその膨らんだ部分[かかと以外の意味?]で回る。向きを変えたら、左足を右足の隣に、気を付けの状態に持ってくる。回って左足を前に持ってくる間に区切りを入れてはならず、1動作として行うこと。


Links um(リンクス・ウム):左を向く 
上記のものとは逆に、左足のかかとを軸に回転し、対して右足はその膨らんだ部分で回る。向きを変えたら、右足を左足の隣に、気を付けの状態に持ってくる。回って右足を前に持ってくる間に区切りを入れてはならず、1動作として行うこと。


Kehrt um(ケールト・ウム):後ろを向く 
この命令は個人の兵士のみに対してである。訓練か、Ehrenwach(エーレン・ヴァッハ:儀仗隊)のような小さな隊列などに使われる。分隊から中隊などの隊列に対しては"Ganze Abteilung -- Kehrt!"(ガンツェ・アプタイルング ケールト:全部隊 後ろを向け)の命令を代わりに用いる。
 命令されたとき、左回りで左足を軸に右足の膨らんだ部分と共に180度(真後ろに)回転する。向きを変えたら右足を左足の隣に、気を付けの状態に持ってくる。(基本的には左を向くのと同じだが、真後ろに向く。)


Wegtreten(ヴェク・トレーテン):解散 
砕けた感じ[フォーマルでない]のAntretenに対応する、命令ではない。公式な命令であるWeggetreten(ヴェク・ゲトレーテン)と混同しないように。
 パレードの隊列に対して、公式な命令であるWeggetretenは次のように用いる。
 "Gruppe -- Nach links -- Weggetreten!"(分隊 左へ 解散!)これは左への方向転換と、3歩のステップで構成され、その後に隊列を解散する。この命令は他にも"Nach rechts"(右へ)か"Nach rückwärts"(後ろへ)などが伴うことが求められる。そして、小銃が"Gewehr ab"の状態で用いられ、 "Gewehr über"の状態では決して行われない。

Augen Rechts(アオゲン・レヒツ):頭右 
この命令では、頭と目線を右に体は動かさずに向ける。この態勢を前を向けという命令があるまで保持すること
 もし、観閲のために目を右へ動かす場合は、命令は"Zur Meldung -- Augen -- Rechts!(報道に向けて(?) 頭 右!)"となり、全員がFlügelmannも含め、目線を右へ向ける。観閲将校が近づいてきた時、それぞれはその将校に彼が通り間、顔を向け続ける。将校がそれぞれのちょうど正面にいるとき、将校がもう5歩進むのを数え、そして前を向く。これは観閲の時のみである。他の状況では、"Augen -- Rechts"の態勢は"Augen – Geradeaus(視線を正面に)"の命令が与えられるまで保たれる。
[参考動画2:17あたりから観閲の例が見られます。]
http://www.youtube.com/watch?v=_gQn8xeP_K4

Augen Links(アオゲン・リンクス):頭左 
左を向くことを除いて、上記のAugen Rechtsと同じである。

Marsch(マルシュ!もしくはマァシュとも):行進 
この命令は以下の2つのうちのどちらかのようにすることが求められる。
"Gruppe -- Im Gleichschritt -- Marsch!"(分隊 同じ歩調[足並みをそろえて]で 行進!)
"Gruppe -- Ohne Tritt -- Marsch"(分隊 歩調無し[足並みを揃えずに]で 行進!)
 分隊レベルでは、Reihe(縦1列)かDoppelreihe(縦2列)の時はたいてい歩調無しであり、Marschkolonne(行進の隊列)の時はたいてい歩調ありである。
命令の時、兵士は左足から行進を始める。手は平らに伸ばし、ベルトバックルまで振り上げ、その後自然に振り降ろすということに気を付けること。ドイツの行進の歩幅は長く、80cmで、1分間に114歩のリズムである。Abstand(前後の間隔)も同じく80cmである。








Ohne Tritt Marsch(オーネ・トリット マルシュ):歩調無しの行進 
2つあるうちの1つの行進の形なので、上記のMarsch!,に含まれている。この命令はその環境で行進の歩調が出来ない場合に用いられる。

Im Laufschritt Marsch(イム・ラウフ・シュリット マルシュ):駆け足で進む 
2倍のスピードで進む。

Halt! (ハルト):止まれ 
Haltは常に右足の時に命令される。そして常にもう1歩左足を右足を止まる位置に持ってくる前に進める。



Rechts um(レヒツ・ウム):右へ 
この命令は、行進中に用いられ、曲がる方向の足の時に用いられる。(例えば、右へ曲がるとき、Rechtsの命令は右足を出した時に与えられる。)数歩のステップ(主に3~5歩だが、もっと多い場合もある)が、実行の命令が進む方向の足と共に与えられる前にとられ、その命令(um)のあと、もう一歩が以下の絵に示したように曲がる前にとられる。



Links um(リンクス・ウム):左へ 
上記のものを参照のこと。



 これらのものは、Der Erste Zugの方々から許可を頂いて転載させていただいています。
自分の翻訳は非常に稚拙なため、英語が少しでも出来る方は原文のものを読んでみることをオススメします。
自分の訳では伝わらないことも、英語のものではニュアンスなどから読み取れることもあるかと思います。
また[ ]の中は自分がおそらく理解しやすくなるだろう、ということで付け加えたものです。
この記事に関して、分からないことや、意味が分からないことがありましたら、コメントして頂けたら、自分のような若輩者でも答えられるものには答えていきたいと思っています。

原文:米国のWebサイト Der Erste Zug

http://www.dererstezug.com/SchooloftheSoldier.htm


  

Posted by ハルトマン at 20:51Comments(7)翻訳文ー命令・戦術などー

2011年09月24日

Der Erste Zug という海外サイトについて

 久々の更新となってしまいました。
というのも、下記で紹介する事柄や、大学の課題などで色々と忙しかったので
更新する暇が・・・;

 実は、アメリカのリエナクト関係のサイトでDer Erste Zug http://www.dererstezug.com/index.htm というサイトがあるのですが、
そこの記事を翻訳したりしていたわけです。

彼らの研究・調査は、自分のような若輩者にとっても、そしてもしかしたらベテランの方々にとっても非常に興味深く、有意義なものであるだろうということで、翻訳していたのですが、
転載するにあたって、許可無く転載すると 彼らや彼らの努力、研究に対してやはり失礼なので
転載する許可を頂きたいと、彼らにメールしていました。

今朝方、その件で許可を頂いたので、晴れてこのブログで主に扱おうとしていた翻訳文を載せることができます。

まだほんの一部しか訳せていない上に、非常に稚拙な訳なのですが、
なんとか読み取れるようなものにしていきたいと思いますので、良かったら読んでやってください;

次回から翻訳した文章を載せていきたいと思います。


最後に、Der Erste Zugの方々の寛大さ、記事の添削に協力していただいた方々に重ねて感謝をしたいと思います。


  

Posted by ハルトマン at 23:29Comments(0)翻訳文ー初めにー

2011年06月11日

COMBAT!@御殿場 2日目

 さて、2日目です。
寝る前に飲みすぎて吐いた気がしますが、とにかく夜が明けて2日目になりました。
着装したまま車の中で寝ていたので、疲れがまだ残っていた気がしますが
7時からまた教練と戦闘訓練をすると事だったので、
それまでに近くのコンビニへ車で朝食やら昼食を買いに行ったりしました。

 帰ってくると早速訓練をするとのことで、
装備を付け直して訓練に臨みました。

訓練中の1シーン

http://www.youtube.com/watch?v=nfLcb6q_8vQ
http://www.youtube.com/watch?v=DACt4njQeUs

↑これは米軍の方が撮ってくださった動画です。
スプリンターズさんが投稿してくださったようです。

訓練の後、開会の式典をするとのことで
各軍で催し物をするとのことでした。

日本軍から始まり、ドイツ軍、米軍と続き、締めは国府軍でしたが、
国府軍のキチガイじみた、もとい素晴らしいノリは上記の動画で
見ることができます^^

開会式のあと、午前・午後の戦闘があり、
集合写真などはお昼休みに撮りました。

イベントのあとは、みんなで近くの温泉に行きました。


お粗末なレポートになってしまいましたが、
イベントに参加された方々、お疲れ様でした。

こんな若造ですが、これからもご一緒できるとうれしいです。

ということで、今回のレポートを終わらせたいと思います。
bis Bald, Kamerad !
  

Posted by ハルトマン at 21:15Comments(0)イベント

2011年06月07日

COMBAT!@御殿場 1日目

 4~5日の2日間、御殿場のCOMBAT!に参加してきました。
今までのイベントと同じように、先輩のレンタカーに乗せてもらって現地まで行きました。
 
 服装は相変わらずの東方義勇兵合わせ。
今回は陸軍のハンフェルトさんの元で執銃などの教練を行いましたが、
教官であるGefreiter(訳は伍長か軍曹・・・どっちだったっけなぁ・・・勉強不足だ;)殿は本職の方だそうで
初日・2日目とも激が飛ばないかと内心ビクビクしながら訓練をしていました(笑)

 集まった部隊は大まかにいうと日独米中で、
今回は自分の知人の方々が国府軍(国民党軍)として合わせて参加していました。
アイヤー!

 初日は会場に着くや着装して、教練が始まり、
服装点検の時点で自分を含めた数名が腕立て伏せを課されることに・・・(笑)
その後、StillgestandenやRührt euchなどの基本的な号令から、小銃を使った各種執銃をしました。

 訓練の後、ドイツ軍の大先輩のハントさんがお店を出していたので、
そこで銃剣を売っていただきました。
自分は銃剣を持っていなかったので(普通に売ってますが、軍資金的な問題でなかなか手が出せなかったので;)
非常に助かりました^^

 しばらくブラブラとあっちへ行ったりこっちへ行ったりして過ごしている間に日が暮れてくると
霧が出てきたりしてこの時期にしてはかなり寒かったと思います。
そして、その寒さをしのぐために燃料補給タイム!!(って、単に飲みたかっただけなんですけどw)
ウォッカやらビールやらを飲みながら夕食をとり、そのあとは各々飲んだり、
ホモプレイしてみたり、談笑したりetc...

 最後に、行き帰りの車を運転してくださった先輩、一緒に戦ってくださった戦友のみなさんに感謝を。
ありがとうございました^^
まだまだ初心者っぽさが抜けてないような自分ですが、次回もご一緒できるとうれしいです。

2日目に続く・・・
bis Bald, Kamerad !
  

Posted by ハルトマン at 00:25Comments(0)イベント

2011年04月26日

Historical Fest 2011

 23・24日で黒狼中隊主催のHistorical Fest 2011に参加してきました。
今回はいつもの仲間やその友人6名で東方義勇兵(РОА:ロシア解放軍)として陸軍の1部隊として参加してきました。

 しかし、会場に着くと・・・というかその前から雨が降っていて、一応装備は付けましたがこのままでは何もできないのではと寒さに震えながら思っていると、
「教練をやるので、着装して集合!」
しばらくやってなかったのですが、サバゲなどではなかなか出来ないのでとても楽しかったです。
・・・パンツまでずぶ濡れになって、夜は凍えることになってしまいましたが(汗)

 翌日は前日が嘘のように思えるような晴天!
朝は前日のこともあってずぶ濡れで凍えるような思いをしましたが、いざ始まってみると夢中になって靴以外は気付かぬうちに乾いてました;

 小隊でヴェスターヴァルトリートを歌いながら陣地まで整列して行進していき、各分隊の指揮官が作戦やらを話し合って陣地に付きましたが、自分の所属する第3分隊(ロシア人部隊)はドイツ人に信用されなかったのか、2級線部隊だったためか、後方で予備として待機命令が下りました(笑)
 戦闘が始まると、やはり米軍は自動火器が多く、Kar98kが主力火器のドイツ軍は苦戦し、自分たちも前線で戦うことになりました。しかし、こちらも分隊長のPPshを除くと全員が98kでしたので、後退・応戦を繰り返しながら戦うことになりました。

 その後、反撃を開始したドイツ軍によって、初期の戦線まで押し返すと、
「左翼から損害に構わず攻撃せよ」
との命令が小隊長から下されました。
この命令に嫌々ながら(内心は嬉々としながら)応じ、雨によってできた溝を友軍とともに
Ураааааааааааааааа!!!(ウラー!)
と、叫びながら突撃すると、連合軍(米空挺・レンジャー、英空挺)は不意を突かれて応戦するも同時に第1・2分隊のドイツ人部隊も攻撃を始めたために、
「後退しろ!アイツらウジャウジャ来やがる!」
との声を残して後退していきましたが、自分を含めて損害を受けたためにこちらも後退することになりました。

 小規模の戦闘や昼食をはさんで、戦闘を続けること数時間。
最後の30分あたりになってきたところで、米軍のレンジャーがいつの間にか後方に回り込んでいて挟み撃ちされる状態に・・・
 第3分隊に後方の米軍部隊を攻撃せよとの命令が下され、攻撃を開始しましたが・・・
やはり火器の差は大きく、各々白旗をポケットから出して降伏することに。
しかし、友軍のドイツ人部隊が接近してきたので、とっさに米軍部隊は我々を武装解除し、
「10秒やるから、友軍陣地に向かって走れ。10秒経ってもいたら撃ち殺すぞ!」
という形で解放されて、悲鳴を上げながら逃げ帰りました。

 そして、陣地に戻ると右翼に回ってまたもや後方の米軍を攻撃するように命令が下されましたが、
ここで戦線を放棄して逃亡。
第1分隊の分隊長殿に発見された気もしますが、とにかく逃亡。
向かい側の米軍に降伏し、武装解除されて尋問を受けていると、ドイツ人部隊の攻撃が!
「アメリカ大好き!」「USA! USA! USA!」「ファシスト嫌い!」
などの命乞いが功を奏したのか、米軍とともにドイツ軍を撃退してしまいました・・・。
 しかし、ロシア人は信用ならん!とのことで1人の米兵によって投げられた手榴弾によって、自分を含めた分隊員ほぼ全員がお亡くなりになりましたとさ。
Das Ende...

ではなくて、テイク2ということで
今度はドイツ人の指揮官や下士官を手土産に米軍に降伏することに・・・。
降伏すると、ロシア人・ドイツ人に分けられ、ロシア人はだいたい許されて武装解除され、
ドイツ人部隊は手榴弾によって処刑されることになりましたとさ。

 その後、状況終了ということで、集合写真を撮ったり、主催の方に閲兵士官をしてもらって
儀仗・閲兵式をしたりして、解散ということになりました。

 主催してくださった方々、一緒に戦った方々、そして会場まで運転してくださった先輩方に感謝して、
今回のイベント報告とさせていただきます。

では、
Bis bald, Kamerad!

※写真は友人にもらったものなどがあるのですが、
なぜかうpできないのでお見せすることができません・・・;




  

Posted by ハルトマン at 23:36Comments(0)イベント

2011年04月22日

明日のHistorical Festについて

 明日は雨との噂ですが、はたしてどうなることやら・・・。
個人的には、雨に降られると雨具がないので厳しいことになるんですがねぇ;
なんだかせっかくのイベントなのに残念な感じです。

 自分はまだ免許がないので(まだ仮免とったばかりなのです)、
友人の先輩に連れて行ってもらいます。

 どうなるかわかりませんが、月曜か火曜にでもレポを上げたいと思っています。
写真とる暇があればいいんですが・・・


 では、明日・明後日が晴れることを祈って・・・
参加される方はよろしくお願いいたします。


では、このへんで
Bis bald, Kamerad !  

Posted by ハルトマン at 23:25Comments(0)イベント関連

2011年04月08日

久々の更新です。

 地震やらなにやらで色々とあったため、久々の更新となってしまいました。

 今回は、4月の23~24日にある
http://www.eaglesnest-inc.com/HistoricalFest.htm
こちらのイベントにお邪魔させていただくにあたっての内容になります。

 自分を含め、なにやら東の方の方々の部隊で参加することになりそうです。
戦況によってはもしかしたら、陸軍の方々を裏切って・・・なんて事になったりするかもしれませんw

 戦うにしても、自分の装備は2級線部隊の二等兵ですから、自動火器なんて無いので
Kar98kやらお古のM40野戦服やらになります。
そのための記章の縫い付けやら、陸軍の装備を入手したりといろいろと大変です;

 ちなみに、前々回の記事で書いたように、ハーモニカ(ビンテージ品が無かったので、当時あったような見た目のものですが・・・)を買ってしまいましたので、野営の時には吹いてみようかなと思います。
・・・と言っても、まだまだベントとかが出来ないので普通の音だけで演奏できる
・Drei Lilien
・Lili Marleen
・Ein Heller und ein Batzen
の3曲くらいしかできませんが;

 最後に、遅くなってしまいましたが
この震災で不運にも亡くなってしまった方々のご冥福を祈らせて頂くとともに、
被災された方々にまた平穏な日々が戻ることを願わせて頂きます。

 それでは、今回はこのくらいで
Bis bald, Kameraden !  

Posted by ハルトマン at 17:56Comments(0)イベント関連

2011年03月05日

前回の日記について

 前回の日記で、分からない歌があると書かせていただきましたが、
あれ以来、Youtubeなどでいろいろと動画を見てきてやっと何の歌かわかりました。

歌の名前は
Ein Heller und ein Batzen
日本語ですと「銅貨と銀貨」というらしいです。

Ein Heller und ein Batzen

Die waren beide mein, ja mein

Der Heller ward zu Wasser,

Der Batzen ward zu Wein, ja Wein,

Der Heller ward zu Wasser,

Der Batzen ward zu Wein.

Heidi, heido, heida, heidi, heido, heida,

Heidi, heido, heida ha ha ha …

Heidi, heido, heida, heidi, heido, heida,

Heidi, heido, heida!




前回のものも載せますので、比較してお聞きください。


探せば意外に見つかってしまうものですね;

と、いったところで、今回はこのあたりで失礼させていただきます。
Bis bald, Kamerad!  

Posted by ハルトマン at 16:36Comments(0)

2011年03月02日

気になる歌~スターリングラードより~

 前回は軽い挨拶でしたので、今回から本格的に書いていこうと思います。

さて、今回はカテゴリーを歌としました。
ErikaやWesterwaldlied、Panzerliedのようなものが有名ですが、
自分のような若輩者よりも前から調べたりなさってる先輩方が既に歌詞などいろいろと
取り上げてらっしゃるでしょうから、ここでは有名どころの歌は取り上げないようにしたいと思います。
今回取り上げたいのが・・・歌詞も名前も分からないけど、気になる歌です。

・・・勉強不足ですいません;

その歌というのが、1993年のドイツ版の映画「スターリングラード」の前半の
イタリアから列車に乗ってスターリングラードへと行くときに
ライザー(耳の大きなObergefreiter)と、ロロ(冒頭で遅刻をとがめられたUnteroffizier)たちが
列車の外を眺めているときにアコーディオンで演奏され、兵士たちも歌っていたものなのですが、
ライザーなどの主要な人物たちの会話で聞き取りにくいのです;



2:56あたりから流れだすのですが、
この時代の歌に関してはまだまだ勉強不足でどの歌なのかわかりません。

ご存知の方はコメントしていただけるとありがたいのです;

ちなみに、映画の後半に同じくアコーディオンで演奏されていたものは
Drei Lilien、日本語ですと三輪の百合という歌です。

イベントなどでも戦友たちとErikaなどを歌う機会があるのですが、
アコーディオンなどがあれば、みんなでもっとワイワイ歌えると思うのですがねぇ・・・

難しい歌などは、伴奏があるだけでも少しは歌いやすくなるのではないかなぁ~と
前々から思っているのですが、なかなか自分で伴奏用の楽器を手に入れる決心がつかないもので・・・
アコーディオンでは少々かさばるので、ハーモニカとかなら良いのでしょうかねぇ?

当時の写真などを見て、適切な楽器なども調べてみなくてはなりません!

以上、稚拙なものとなってしまいましたが、今回はこのくらいにさせていただきます。

Bis bald, Kamerad!  

Posted by ハルトマン at 07:06Comments(1)

2011年02月21日

開設しました

 本日から開設させていただきます。
ハルトマンの従軍日記です。

 まだどうなるかわかりませんが、可能ならばドイツ軍関連の海外サイトの翻訳などを挙げていければと思います。

 ちなみに、自分はまだまだドイツ軍に関してはド新人なので、間違いを見つけましたらコメントなどでお知らせ頂けるとありがたいです。

 ごあいさつ、手短になりましたがよろしくお願いします。
  

Posted by ハルトマン at 23:37Comments(0)初めに