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Posted by ミリタリーブログ at

2012年02月25日

野戦服の合わせ方

 
 本文に入る前に、まずこの記事を翻訳したものとはいえ、転載することを快く許可してくれたアメリカのリエナクトグループであるDer Erste Zug http://www.dererstezug.com/index.htm の方々、そして原文を書くために努力した方々や、翻訳に当たって協力してくれた友人たちに心から感謝したいと思います。
 これらの協力がなければ、今私達がこの資料を共有することは出来なかったと思います。
 I would like to thank Der Erste Zug for permitting to quote this article.
Without their efforts and generosity, we would not have been able to share these valuable research.


 ドイツ軍の1933年型から43年型のフェルトブルゼ:どのようにして合わせるか
著者:Ed Walton, タイピスト:Jonathan Bocek

 以下のものは元々www.lostbattalions.com. で出版された。Ed Walton氏に私たちが彼の記事である"German Field Blouse Models 1933-1943: How They Fit"をこのサイトで使うことを許可してくれたことについて特に感謝します。

 ドイツ軍は新しい野戦服(Feldbluse)を1933年に、"Reichswehr"時代に関係している1927年型勤務服(Dienstrock)と置き換えるために導入した。新しい野戦服によってドイツ兵たちは、現代的な風貌に更新され、それはすぐさま1934年と1935年のいくつかの変更で不朽のM36野戦服;NS時代でもっとも有名な制服(黒いSSのDienstanzugを除いて)へと洗練された。1933年に導入され、1934年に短くされた基本的なデザインは、戦車服(Panzerjacke)とM44野戦服を除いて第3帝国のほぼ全軍とナチ党の制服に推進された。 これらの制服のジャケットはどんな民間のスーツや現代の私たちの知っているどの国家の勤務服とも合致しないということを注意して欲しい。以下のものは第2次大戦のドイツ軍の制服の重要な合わせるための要素である:全体的な長さは短く(これについては下を参照してください)、アームホールは小さく、背部は狭い。これは着る者にとって全体的に腕の部分が小さく感じられ、肩の部分、そして胴の形がピッチリしているように感じられる。この感覚は一般的に、ジャケットのサイズが小さすぎるのだと誤解される。これは現代の衣類(素晴らしいイタリア製かヨーロッパのスーツを除いて)がもうこの合わせ方で作られておらず、誰もこの感覚に慣れていないからである。

フェルトブルゼは短い!
 野戦服を短くする事実上の目的は、機械化された環境に都合よく着る為にスカート部分(野戦服の下のポケットがあるような下の部分)を十分に上げることであり、それによって服の後ろの縁が乗り物のシートに触れないようになり、汚れないようになる。戦後、Hugoの息子によって設立された現在のBossの会社によって、Hugoは単なる仕立て屋であったと主張されるのであるが、Hugo Bossはたいてい、第3帝国の制服のしゃれた容姿のために人気のある雑誌によって批判されたりほめられたりする。もとはデザイナーであったにせよ、彼は並外れた奇術師であった;M33野戦服をただ単に6インチ(15.24cm)短くする代わりに、彼はすべての衣類を、背が高く見えるように作りなおした。

 まずその過程の初めとしては、袖口の終わりを親指の関節から手首の骨まで上げる(ちょうど3インチ:7.62cm)、手全体が見えるようにする。
 次に、前のスカート部分(詳細は上記を参照のこと)の縁を腕を下げた状態の人差し指の関節と同じ高さまで上げる(約6.5インチ:16.51cm)。
 3つ目に、後ろのスカート部分をもう2インチ(5.08cm)上げる、よってお尻の上半分だけが覆われるようになる。
 最後に、ベルトの位置をベルトの幅の分だけ上げる、それでベルトの下のラインがほぼだいたいヒジの曲がる部分と並ぶようになる。

 その結果は、その制服を着ている全ての兵士が彼の実際の背よりも数インチ高く見えるという目の錯覚である。短い丈のジャケットと高い位置にあるベルトによって、ほぼ全てのドイツ兵が整えられた胴と非常に長い脚と共に北欧の超人のように見せかけられるのである。伝えられるところによれば、この新しいデザインは事前に女性のグループ(私たちが今言うところのフォーカスグループ)に異性に対して望ましい効果があるかどうかを確かめる為に事前調査をしたらしく、それによって兵の士気を上げたという。

 以下の写真を、実際はどのようにドイツ軍の上着が合わせられると考えられていたかについて、より良く理解する為に研究してください。特に、手の位置と袖丈、着丈の関係について注意を払ってください。


 
上着のスカート部分の縁が背中から前にかけて下に下がっていることを表す良い写真です。これが典型的な第二次大戦の上着の型です。ズボンのポケットの下の部分が見えていることに注意してください。


右後ろのズボンのポケットに入っている財布がくっきりと見え、フェルトブルゼのスカート部分で覆われていないことに注意してください。また、後ろのベルトフックがひじの高さよりも上にあることにも注意してください。


この制服のスカート部分は袖の前の部分とちょうど同じ高さであり、袖の後ろは約1.5インチ(約3.81cm)スカート部分より低い。ひじの位置にあるベルトと、ズボンのファスナーの下2インチ(約5.08cm)がどのように見えるかについて注意してください。


この写真のフェルトブルゼのスカート部分の後ろの高さに注意してください。それは袖口よりも高い位置にあります。


袖口の終わりがちょうど手の上の方にあることに注意してください。また、ジャケットのスカート部分の縁が袖口の前の部分から約2インチ(約5.08cm)上にあり、袖口の後ろからは約3インチ(約7.62cm)上にあるということや、ベルトがひじの下の部分の高さに付けられていることにも注意してください。


フェルトブルゼのスカート部分がお尻の上半分しか覆っていないことに注意してください。これはスカート部分が斜めになっているためです。後ろは前に比べて1.5(約3.81cm)から2インチ(約5.08cm)ほど高くなっています。


これらのHBT作業服が明確に1934年から1944年の時代の、後ろが高く、前が長いということを表しています。ウールの制服の型はこれらの服の裏地やポケットの配列を除けば同一である。ズボンのポケットがはっきりと見えるということを注意してください。これが標準的なドイツの型です。


これらのものは、Der Erste Zugの方々から許可を頂いて転載させていただいています。
自分の翻訳は非常に稚拙なため、英語が少しでも出来る方は原文のものを読んでみることをオススメします。
自分の訳では伝わらないことも、英語のものではニュアンスなどから読み取れることもあるかと思います。
また[ ]の中は自分がおそらく理解しやすくなるだろう、ということで付け加えたものです。
この記事に関して、分からないことや、意味が分からないことがありましたら、コメントして頂けたら、自分のような若輩者でも答えられるものには答えていきたいと思っています。


原文:米国のWebサイト der Erste Zug
http://www.dererstezug.com/FieldBlouseFit.htm
  

Posted by ハルトマン at 00:31Comments(0)翻訳文ー兵卒の物ー

2012年02月06日

前線でのドイツ軍の糧食

 本文に入る前に、まずこの記事を翻訳したものとはいえ、転載することを快く許可してくれたアメリカのリエナクトグループであるDer Erste Zug http://www.dererstezug.com/index.htm の方々、そして原文を書くために努力した方々や、翻訳に当たって協力してくれた友人たちに心から感謝したいと思います。
 これらの協力がなければ、今私達がこの資料を共有することは出来なかったと思います。
 I would like to thank Der Erste Zug for permitting to quote this article.
Without their efforts and generosity, we would not have been able to share these valuable research.


前線でのドイツ軍の糧食
バルジの戦いの中、ドイツ兵たちが何を消費していたかについてのスナップショット
著者:Jeff Johannes; 編集および情報の追加:Doug Nash

導入
 この記事の目的は、第2次大戦中に前線のドイツ兵たちがどのようなものを食べていたかを調査することである。支給されていたと想定される野戦糧食の幅広い写真を挙げる代わりに、この記事では兵士たちの言葉によって彼らが実際に何を食べて彼らの体を維持していたかを説明しようと思う。さらに、この項目を深く追求するために、この記事では1つの作戦内の1つの部隊に焦点を絞ろうと思う。つまり、アメリカではバルジの戦いとして知られているドイツ軍によるアルデンヌ攻勢の最中の第352国民擲弾兵師団にである。

背景
 1944年12月16日、Wehrmacht(ドイツ国防軍)はこの大きな攻勢:暗号名Wacht am Rhein(ラインの守り)作戦を北部・中部のドイツ国境に配備されていたアメリカの第1軍へ対して発動した。作戦の中心はドイツ・ベルギー国境に面したアルデンヌの森林地帯であった。よく、この作戦の様子としてはルクセンブルクの北部で行われた攻勢が見落とされがちである。たいていの第2次大戦の歴史を研究するものにとって、ここはバルジの戦いの南部にあたる地域であると知られている。
 
 南部の攻勢に参加したドイツの師団の1つは古参部隊である352.Volksgrenadier Division(VGD:第352国民擲弾兵師団)である。第352国民擲弾兵師団、かつての第352歩兵師団はノルマンディーでの作戦中に引き抜かれ、最終的にドイツ本国に再建・再編成するために戻された。1944年10月、第352歩兵師団は新しいKriegsstärkenachweisung、もしくはドイツ軍によって始められたKstN(組織の表)にしたがって、第352国民擲弾兵師団と改名された。この師団は海軍や空軍、そしてフランスやポーランドなどの占領地域の民族ドイツ人の徴集兵の兵卒を加えて再編成された。この師団の主な戦力はその師団の擲弾兵連隊であり、それらは第914、915、そして916擲弾兵連隊によって構成されていた。もう十分に第352国民擲弾兵師団の個々の戦闘部隊は向上され、リバーシブルな冬用の迷彩服やSturmgewehrとして知られるMP-44突撃銃などを含む最新の戦闘装備に置き換えられたものもあった。

 師団やドイツ軍の様子として一般的には、糧食や食料の供給システムは向上されてなく、また機械化されてもいない。大部分において、第352国民擲弾兵師団はその連隊に野戦糧食や食事を、ドイツ軍が6年前に戦争が始まった時に使っていたのと同じ方法で供給していた。1944年12月の食糧供給システムは依然として主に、調理済みか調理された暖かい糧食を毎日、中隊か大隊のフィールドキッチン部門が馬やトラック、もしくは徒歩などの様々な方法で前線に送り届けることで構成されていた。



 前線にひとたび糧食が到着すると、それらはすばやく擲弾兵たちに、大抵は野戦食器や水筒に入れられるという形で後方に受け取りに行くという様に描写されるように分配された。その他のチョコレートやキャンディー、パン、玉ねぎ、コーヒーなどといったものはブランケットの上に置かれ、丸められることによって運びやすくされた。この記事を読んだ者は、このシステムが大部分においてバルジの戦いでは必要な量の食料を前線の兵士たちに運ぶのは、当時、多くの兵たちが毎日空腹に陥ったという結果から失敗したと分かるでしょう。もう1つの要因として、いつ、またはどのくらい遅く、兵士たちが彼らの糧食を受け取るか決定するかは、その距離-部隊が攻撃として前に移動すればするほど、フィールドキッチンを含む補給部門との距離は遠くなり、補給部隊にとって前線に食料を運ぶための移動距離ももっと長くなるのである。これらの食料輸送部隊はたびたび遅れて到着し、もし彼らが彼らの部隊を見つけられても、食料は冷たくなっていることがあったのである。

 ドイツはまた、米軍のCやKレーションと同様の個別の戦闘糧食を開発しようと試みたが、アメリカのものほど充実したレベルには達することは無かった(これらのレーションの追加の情報として、次の記事も参考にしてください:"German Iron Rations" http://www.dererstezug.com/IronRation.htm 著者:Doug Nash もしくは "The German Army K-Ration" http://www.dererstezug.com/germanration.htm  著者:Eric Tobey これらはDer Erste Zugのウェブサイトで公開されています)。この個別の糧食を輸送する方法は不成功であった、その原因としてはこれらの糧食を前線に届けるための補給システムの障害のためか、もしくは単に通常の暖かい糧食の支給に失敗したときに、基地に兵たちへの十分な量が無かっただけなのであろう。どちらの方法でも、ドイツの食糧供給システムは全体的にこの攻勢作戦に兵たちが必要とした戦闘のための力を適切に維持するためには不十分であった。

 よって、この作戦が始まったときに、352.VGDを含むドイツの食糧供給システムは既に、擲弾兵たちに十分に食糧を供給し続けることは不可能だったのである。バルジの戦いが1月まで長引いたとき、いつになく寒い冬に野外で過ごして悪化した適切な滋養の欠乏は平凡な擲弾兵の肉体と精神に大きな打撃を与えた。疲れ、空腹で、寒く、そして自分たちの食糧を捜しまわることを強いられれば、超人だけが、ドイツ軍がこの攻勢の始めに示したものと同じ熱意と戦力で戦い続けることが出来たであろう。

 以下のものは、この作戦中でドイツ兵たちが何を食べたのかについて、目撃者の記述によって拡大された概要である。

支給された食糧
 第352国民擲弾兵師団 第914擲弾兵連隊 第2大隊の擲弾兵であったUlrich JonathとHorst Hennigは、彼らがどのようにしてあの作戦を生き残ることが出来たのかを含めて、この作戦中のドイツ陸軍の兵たちへの食糧補給の試みを、「私たちの食糧供給は不十分でした。アメリカ軍から手に入れたチョコレートや、民間人の家から徴発した余剰食糧を除いては、何もありませんでした。」と、要約した。JonathとHennigはまた、前線で彼らが野戦糧食の調理を出来ないことについても言及した、「米軍による砲撃に対する警報のため、調理が出来るのは稀でした。」と。これは事実として、ドイツ軍が彼らの糧食を温める為に、単にストーブを用いるか、火を焚くという試みに関連している。彼らのエスビットは通常の火を用いるよりも多少は目立たず、米軍の砲撃がある程度緩和されたのだと考えられる。

 第915擲弾兵連隊 第1大隊 第3中隊のUnteroffizierであったWilhelm Stetterはまた、以下のようにスープの十分な支給について述べた、「私たちは10日で最初の暖かい食事を得ました、それはえんどう豆のスープで、人気の無い家に十分な量の豚の脂があったので、油が浮いていました。それで私たちは食べました、いや、私たちはその脂っこいスープを私たちが胃に詰め込めるだけ飲み込みました;深刻な消化不良と腹痛が2日間続きました。」



 第916擲弾兵連隊 第2大隊 第6中隊のHebert Brachは最後に、当時彼が受け取った最初のドイツ軍の糧食について後にこのように言いました、「私たちが丘のふもとにたどり着いたとき、そこには一塊のパンを持った兵士が立っていて、私たちはそれをスライスして、敵の砲撃で補給部隊が近づけなかったせいで、6日間も糧食を待っていたのでほとんど彼の手からそれを引き裂くように取りました。そしてこのパンは私たちに歓迎されました;私たちは事実、飢え死にしかけていて、このパンは素晴らしい味がしました。」


 第916擲弾兵連隊 第1大隊 第3中隊のFriedrich Schmaschkeは彼が冷たい糧食として何を受け取ったのかについて述べました、「食糧の支給は翌日まで延ばされ、結果的に私たちは暖かい食糧を再び得ました、有り難い変更です、それまでの数日間は軍のパン、嫌な味のするバターかマーガリン、それに人工のハチミツかジャムなどの冷たいもの以外何もありませんでしたから。」Schmaschkeはバルジの戦いの間の糧食に関係するいくつかの重要な情報を持った、典型的な兵士であると思われる。例えば、彼は食糧だけでなく雑用品についての再補給にも言及している、「彼(中隊のSpiess)が携行していたものは、その後中隊に分配されました。タバコ、葉巻、アルコール飲料、石鹸、くし、かみそりの刃、そしてチョコレートなどです。」ここで、Schmaschkeが再び述べるように、作戦中のそのとき、彼はまた、死んだり負傷したりしているドイツ兵の雑納をあさることによって何とかやっていた「そして、私はLongsdorfに自分の食べるものを探そうと戻りました。私に話しかけた一人の兵士が私にいくつかのアイデアを教えてくれました、農家へと道をさかのぼるようにと;戦死者や負傷兵の全ての装備品はそこの畜舎にありました。私が戦死者や負傷兵の荷物から数切れのパン、3つの缶詰、それに2つのSchoka-Kolaを見つけて畜舎から出てきたとき、1人の戦車兵が砲塔のハッチから顔を出して私に「やぁ、君、お腹空いてるかい?」とたずねました。私は「はい、でもどうして?」彼は私に一塊の軍のパン[コミスブロートを英語にした場合の訳なのだと思われる]を私に投げ渡しました。」

鹵獲された糧食
 バルジの戦いの間、ドイツ兵たちに最も求められた食糧のひとつが鹵獲されたアメリカの糧食である。バルジの以前、ドイツ兵たちはアメリカ軍の糧食の量に驚きおののき、彼らが封を開けた時その質にも同じく、実際に含まれている栄養を見て満足した第916擲弾兵連隊 第2大隊 第6中隊のHebert Brachは米軍の糧食を見つけてとても喜んだ、「その村(Bettendorf)で、私たちは修道院にあったアメリカの食糧と衣類の倉庫を手に入れました。そして私たちはその喜ばしい変化のために十分に食べる必要がありました。みんなアメリカ軍の糧食に舌鼓をうち、そして誰も私たちのフィールドキッチンがどこにあるかなど気にしませんでした。」Brachはもう1つの米軍の糧食についての話を続けました、「Bettendorfで擲弾兵たちは再び、彼らのポケットや雑納、assault packなどを打ち捨てられた無傷な米軍の糧食でいっぱいにしました。実際、それらを食糧で古い乳母車のように丸々とさせている者もいました。数日後の晩、フィールドキッチンがやっとDiekirchに、私たちに暖かい食事を支給するために来たが、誰も空腹ではなく、たくさん見つかったアメリカ軍のものだった糧食のご馳走に感謝していました。補給部隊の隊長はそこへ来て、水っぽいシチューを持ち帰らなければならないことになんどもイライラしていました。」

 いつも空腹だった第916擲弾兵連隊 第1大隊 第3中隊のFriedrich Schmaschkeも米軍の糧食についていくつかのことを言った、「私は海軍のものに近い、オリーヴグリーンのパックを見つけ、それを不思議そうに調べました。ワックスでコーティングされていたため、私は小さな茶色い紙箱を開けるのに手間取りました。それはピーナッツバター、クッキー、チョコレート、粉末状のコーヒー・紅茶、ガム、粉末ジュース、フルーツバー、タバコなどのもので構成されていました。」


 第352国民擲弾兵師団やアルデンヌでの作戦に参加していた全てのドイツ兵たちにとって、水を得ることやのどの渇きを癒すことは生き残るために必要なだけでなく、食べ物と同じくらい得難かったのだと思われる。第915擲弾兵連隊 第1大隊 第3中隊のUnteroffizierであったWilhelm Stetterは水を得ることについて簡潔に述べた、「私ののどの渇きはますます強くなっていきました、私は小川の流れる音を聞いたような気がしました、私は蛸壺から出て、音のしたと思われる方向へと行きました。それは正しかったのです。私はその底に小川の流れている、小さな渓谷の底に来ました。私はmess kit2杯分の冷たい水を飲みました。」

 第916擲弾兵連隊 第1大隊 第3中隊のFriedrich Schmaschkeは当時、単に水を汲んでくるのは危険な任務だったと回想した。「食糧を運ぶ人は毎晩、保温コンテナに入れた暖かい食事を持ってきました。私たちの飲み水は貯水池から高地まで持ってくる必要がありました。それが撃たれ、水は外にこぼれました、ゴポゴポと。1人が汲みに行くのに開けた野原を150m走って横切る必要があったので、私たちは夜にだけ水を汲むことができました。」

 のどの渇きを癒すには別の方法がありました。第916擲弾兵連隊 第15中隊のGunter Bachは別の方法でのどの渇きを癒そうと試みたが、これによってこの兵士は行軍中、悲惨な結果に見舞われることになった、「私はしょっちゅうのどが渇いて困っていました。なので私はすぐにそこらじゅうの木の下に落ちていた2つのりんごを拾いました。それらは霜に覆われていて、一部は凍っていましたが、私はすぐに2~3個をのどの渇きを癒す為に食べました。その結果は、その後すぐに私は酷い下痢に襲われました。」

その土地で手に入れた糧食
 アルデンヌでの作戦中、特にルクセンブルクでは、多くの市民が戦火から逃れる為に彼らの家から離れた。これらの放棄された家は何か食べ物を探している空腹の兵たちの標的となった。第352国民擲弾兵師団 第914擲弾兵連隊 第2大隊のUlrich JonathとHorst Hennigは食糧のために放棄された家々を探したことを述べた、「食糧の補給だけは、市民の居ない家からまだ受け取っていて、じゃがいもやりんごを乾燥させて守り、燻製の肉も含めて私たちが得た全てのものを保存していました。パンは無く、水は溶けた雪から得ていました。」

 第916擲弾兵連隊 第1大隊 第3中隊のFriedrich Schmaschkeも同じように食糧の捜索について思い出した、「農家のキッチンには・・・空腹を徐々に自覚しました、そして大きな食器棚の中を探すことを思いつきました。私はコーヒーと、引き出しの1番下には長い一塊の白パンを見つけました。」

 どこへ、どのようにして兵たちが彼らの食糧を運ぶのかに関して、彼らはたいていそれらを雑納か制服の上着やズボンのポケット、それだけでなく冬用戦闘服やコート、そしてもし持っていればおそらくリュック中にも入れていました。彼らは運べるものには限界がありました、というのも彼らはまだ弾薬や手榴弾、銃器、水筒などその他の野戦装備、それだけでなく分隊のMG42のために追加の弾薬箱を1つか2つ運ぶ必要があったからだ。

結論
 バルジの戦いの中のドイツ軍の神話の1つは、彼らがKing TigerやMe-262ジェット戦闘機の群れで良い装備をしている戦争の機械で、躍起になっている武装親衛隊と装甲擲弾兵の軍団であるというものである。この短い記事が証明しているように、実際はこの作戦中、ドイツ陸軍は前線の彼らの兵士たちに十分に食べさせ続けることさえ出来なかったのである。

もし、この作戦の研究やリエナクトをするときは、第352国民擲弾兵師団の写真に基づいて、以下のようにバルジの戦いの最中にドイツ兵たちが食べていたものが要約できる:

支給された糧食:パン、スープ、マーガリン/バター、ショカ・コーラ、1~2個の缶詰の肉(最も多い場合)

鹵獲された糧食:1944年に北西ヨーロッパで支給されていたタイプの米軍の糧食、主にCかK、それに加えてタバコ、コーヒーそしてホット・チョコレート・ミックス

その土地で得た糧食:パン、ジャガイモ、乾燥した肉、乾燥したりんご(これらの糧食は規定よりも稀に見られる。)

 この作戦の全体の結論として問題とすることが出来るのは、天候条件の回復や、米軍の機甲および歩兵師団の増援が連合軍を勝利に導いたということだけでなく、この第2次大戦中、ドイツ軍の最後の大規模攻勢の敗北は平均的な兵卒への食糧不足も一役買っているということである。

出典
ルクセンブルクでのバルジの戦い 第1巻 ドイツ人 (原題:The Battle of the Bulge in Luxembourg, Volume I: The Germans) 著者:Roland Gaul、出版社:Schiffer Publishing Company、出版年1995年

 これらのものは、Der Erste Zugの方々から許可を頂いて転載させていただいています。
自分の翻訳は非常に稚拙なため、英語が少しでも出来る方は原文のものを読んでみることをオススメします。
自分の訳では伝わらないことも、英語のものではニュアンスなどから読み取れることもあるかと思います。
また[ ]の中は自分がおそらく理解しやすくなるだろう、ということで付け加えたものです。
この記事に関して、分からないことや、意味が分からないことがありましたら、コメントして頂けたら、自分のような若輩者でも答えられるものには答えていきたいと思っています。

原文:米国のWebサイト Der Erste Zug
http://www.dererstezug.com/German_Rations_at_the_Front.htm


  

Posted by ハルトマン at 02:52Comments(2)翻訳文ー兵卒の物ー